「ちょ……待った、薫殿!」

突き当たりに追い詰められて、私は逃げる道を失った。
その気になれば私のことなんて、軽々と捕まえることができるくせに。
いっぱいいっぱいなふりをして――わざと大きな音を立てながら、廊下を走るところが憎らしい。
とはいえど、相当息が上がってしまっている私は、狭いとは言い難いこの家の中をこれ以上逃げ回るのも困難で。
荒れる呼吸を抑えながらゆっくりと振り向くと、そこには同じように呼吸を乱した剣心が立っていた。

「逃げるのは……勘弁してほしい。」
「それは剣心が急に……!」
「……う、ん…いや、そうでござるな、拙者が悪かった。いや、その……」

“勘弁してほしい”なんて大真面目な顔でのたもうた割には、別にどうというわけでもない切り返しに対処しきれず、歯切れの悪い答え。
それでも私の心臓はばくばくと破裂しそうな状態で、そんな歯切れの悪い剣心に突っ込みを入れる余裕もない。
後退を遮る壁に目一杯背中を密着させていると、手にもの凄い量の汗をかいていることにふと気が付く。
馬鹿みたいに焦っている自分が恥ずかしくて、剣心には知られないようにその汗を静かに拭った。
と、その時。

「薫殿。」

うなだれていた剣心が、突如生き返る。
そして同時にまっすぐ私を捉えたその目は、あまりにも力強く、あまりにも優しい。
まるで何かを決意したかのようなその目に、私の意地は打ち砕かれそうになった。

「先ほどはすまなかった。雰囲気に、呑まれた。」
「ふ、雰囲気……?」
「珍しく二人だったものだから、抑えられなくなった。」
「な、ななっ何言ってるの!」
「今更と思われても仕方がないけれど、拙者はかお「ちょ、待って!」

な……何これ?どうしてこんな展開に?
いや、こんな展開は、剣心のさっきの行動でなんとなく分かっていたことだけれど。
それにしても、突然一体何がどうなって……?
というよりかは、私がとんでもない思い違いをしていなければ、剣心が言わんとしていることは……きっと、そういうことで。
え?お、おかしくない?
そう思っていたのは、私の方だったはず。
剣心はずっと、逆の立場だった。

「先ほどのことで拙者を軽蔑したのなら、素直にそう言ってくれて構わない。」
「軽蔑なんてしてない!」

違う。
どうして。
どうしてここに来て、自分のことを下げるの。
そんな風に下手に出られてしまったら、意地っ張りな私の折れ所がなくなってしまう。
さっきみたいに……強引に押してくれないと、私は貴方に触れるきっかけすら掴めない。

「軽蔑なんてしてない……そんなことで、貴方のこと軽蔑なんかしない。それに……」

調子が狂う。
雰囲気に呑まれる。
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。

「私……、嫌だなんて一言も言ってない。」

そうよ。
嫌だなんて、一言も言ってない。
ただ少し驚いただけ。
ただ少し、言葉を聞きたかっただけ。

「……お願いがあるの。」
「は、はい、どうぞ。」
「さっきの続き。」
「え、どっち……」
「聞かせて。」
「あ、はい。え、あの……はい、えと」

暖かく、穏やかな春の日の午後。
視界が暈けて、頬が熱い。

少し落ち着いて彼を見てみると、彼は私以上にあたふたと落ち着きがなくて。
よくもまあこの人が、あのような大それた行動に出られたものだと、思わず噴出しそうになってしまった。



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