そう。
今日は珍しく、二人きりだったから。
いつもなら、ちょうど良い場面で邪魔が入るのに。

それなのに、今日はずっと二人だけだったから。
だから自分は何だかふわふわと夢見心地になって、思わず彼女に触れてしまったのだ。

* * *

昨日作った煮物を弥彦にも持っていくのだと言い、朝から出かけてしまった薫殿。
昼には戻ると言っていたけれど、なかなか返って来ないということは、おそらく色々と弥彦の世話を焼いているのだろう。
部屋の片付けも、洗濯も、庭先の掃除も全て終えてしまった自分は、他にせねばならないこともない現在、縁側でただぼんやりと空を眺めていた。

――こんな風に空を流れていく雲をぼんやりと見るのは、一体いつ振りだろうか。
元より自分は、ぼんやりとするのが苦手というか何というか。
とにかく、このように何もすることがないとどこか落ち着かずに、ソワソワしていたものだ。

どこからか迷い込んできた子猫の喉を撫でたり、その子猫を抱き上げて自分の膝の上に乗せてみたり。
以前ならば、警戒心を剥き出しにして、自分の腕の中から一生懸命逃げようとする子猫のことなど放っておいただろうに、今はそんな子猫の頭を撫でながら「怖くない」などと言い聞かせている。

これは、他者とのつながりを自分から求めようとしているのか。
自分でもよく分からないのだが、とりあえずは悪い傾向ではないだろう。

自分に少し慣れてきた子猫を胸の上に乗せて、ごろりと仰向けになる。
すると子猫は胸の上からぴょこんと飛び降りて、拙者の首元に近寄ると、そこで身体を丸くして眠ってしまった。
穏やかな風が子猫を撫でるたびに、さわさわと首元に触れる毛がくすぐったい。

「先ほどまであれほど警戒していたのに、もう慣れたのでござるか?」

眠ってしまった子猫を起こさぬよう、小さな声で問いかける。
子猫は起きているのかいないのか、目は緩く閉じたまま、耳だけをピンと立てて身体を上下させていた。

自分は確かに、見た目的にも性格的にも、他人から恐れ、避けられるような人間ではないことを自負している。
まぁ何と言ってもそのように見られる一番の原因は、決して大柄とは言えないこの体格のせいだろうけれど。

そうは言っても、やはり自分は男であるわけだし、力だって多分人並み以上にはある。
しかしながら、自分のそういった部分を全く認識してもらえないというのは、少々問題で。

もちろん、世間の全ての人に認識してもらう必要など全くない。
そうではなくて、ただ一人、ただ一人のひとに、そのことを認識してもらいたいのだが。

「なかなか上手くいかぬものでござるなぁ……」

思わず零れた独り言は、青い空へと吸い込まれていく。
子猫につられて瞼を緩く閉じると、身体中の力がすっと抜けて、何とも言えぬ心地よさに包まれていった。


* * *


鼻腔を掠めた柔らかな匂いで脳が覚醒し、ぱちりと目が覚めた。
先ほどまで首元にあった子猫の感触は既になく、どうやら眠っている間にどこかへ行ってしまったらしい。

ああ、しまった。
つい眠ってしまった。

固い床の上で寝たせいか、肩の辺りが少し痛む。
目の前に広がる空の色は先ほどと変わりなく、あれからどれだけの時間が経ったのかは分からなかった。

そういえば、薫殿は……

まだ弥彦の所から戻っていないのだろうか。
しかしながらどれだけ遅くとも、そろそろ帰ってくるころであろう。
となれば、昼餉の準備をせねば。

そう思い、ぼんやりとする頭を意識的に切り替えて身体を起こそうとしたその時、見慣れぬものが視界の隅に映り込んだものだから、そのままの体勢で動けなくなってしまった。

ちょ……
ちょっと。

いや……
これはマズイだろう。

隣には、拙者と同じように縁側で横になって、すやすやと眠る薫殿の姿。
しかも拙者の髪を下敷きにして眠っているものだから、動けば確実に彼女も目を覚ましてしまう。

というか、いつの間に帰って来たんだ。
自分はそれほどまでに長い時間眠っていたのだろうか。

というか、寝ている人間を見つけて、その隣で同じように寝るっておかしいだろう。
仮にも拙者は男で、薫殿は女なのに。

というか……、いや、もうやめとこう。
相手は薫殿なのだ。
一筋縄ではいかないと、これまでにも散々学習したではないか。

ありえない事態を目の前にして、それでも一旦落ち着かねばならないと思い直し、とりあえずはそのままの体勢で深呼吸をする。
その際も、自分の吐く息が彼女に降りかからぬよう、細心の注意を払った。

できることならばもう少し薫殿と距離を取りたいのだが、彼女が拙者の髪を踏んでしまっているので動くことも出来ず。
しかもたった今気が付いたのだが、彼女は拙者の着物まで握り締めていた。

ああ、もう。
これ以上拙者にどうしろと。

しかしながらこれ以上一人で悶々と悩んだところでどうにもならないということは分かっているので、開き直って再び横になる。
こちらが物思いに耽っていることなど露知らず、目の前のひとは「すうすう」と可愛らしい寝息を立てていた。

あ。
意外と肌が荒れている。

これほどまでに近い距離で彼女の顔を見つめることなどこれまでなかったものだから、これまでは何となく、彼女は綺麗な肌をしているのかなぁなんて思っていた。
しかしながら、彼女もごくごく一般的な十代の女性。

既に治ってはいるものの、にきびの痕のようなものも見受けられるし、空気が乾燥しているためか、唇もややひび割れ気味。
それでも彼女の睫毛は、おそらく一般の女性よりも長く伸び上がっている。
左目の目尻に小さな小さな黒子があるのも、新しい発見だった。

出会った当初は「剣術小町」なんて自称だろうか、と思ったりしていたけれど、今こうやってまじまじと彼女を見つめると、彼女がそんな風に呼ばれているのも納得で。
美人というよりは、可愛い。
外見も、中身も、まさに小町という感じだなぁ……なんて、真剣に頷いてしまう自分がいる。

おそらく彼女は――下手にかしこまったり、しとやかにしてみたり。
そういった風に自分を作っているときよりも、全身全霊で竹刀を振り下ろしているときの方が美しいのだ。

相手の動きを読もうとして眼光を鋭くさせたり、体勢を変えるときに少し首を動かしたり。
そんな無意識のうちの一挙一動は他の女性など比にならぬほど艶かしく、美しい。

しかしながら当の本人はそのことに微塵も気付いておらず、拙者に言わせて見れば“変な女らしさ”を求めて、日々可笑しな動きをしているわけだけれども。
まぁ、それはそれで良いのだ。
というよりはむしろ、これからもそのまま間違った方向へ突き進んでもらいたい。

彼女の美しさを知る者は、自分だけで良いから。

彼女のことを独占して、自分の腕の中に押し留めてしまいたいと思うほど、禍々しい欲望にまみれているわけではない。
(と、思いたいけれど。)

それでも、彼女が知る男は自分だけで良い――と思うなんて、矛盾しているだろうか。

ぷくりとした形の良い唇。
その中央に生じた小さな隙間を埋めるのは、自分だけで良い――と思うなんて。

一回り近く歳の離れた男の心を、いとも容易く掻き乱す。
そんな凄まじい力を持っているということを、君はそろそろ自覚した方が良い。

でないと、手遅れになるから。

俺が君を、手放せなくなるから――


「…………」

「…………」


いつの間にか手放していた意識が自分の元へと戻ってきたとき、目の前には、目を大きく見開いて固まっている薫殿の姿があって。

あれ。
薫殿はどうしてそんなに驚いて……なんて暢気に考えていたら、今度は自分が現在の状況を把握して目をひん剥いた。

つまり、自分は薫殿の上に少し乗りかかる感じで。
そして、自分の唇はあと少しで薫殿の唇に到着しそうな勢いで。

この状況を傍から見れば、薫殿が拙者に寝込みを襲われる5秒前、と言っても過言ではないどころか、ぴったり当てはまりそうな予感。
全てが頭の中で繋がった途端、頭から血の気が引いていくのが分かった。

そして次の瞬間。

――ドダダダダダダダダダ……!

拙者を殴るでもなく、暴言を吐くでもなく、一目散に逃げてしまった薫殿。

ああ、しまった。
これは間違いなく、やってしまった気がする。

紳士の仮面がぼろぼろと崩れ落ち、自分の本性がむき出しになってしまった。
そして間違いなく、その本性を薫殿に悟られた。

「っ……、薫殿!」

名前を呼んで、何になる。
後を追って、何になる。

全く予想もつかないし、考える余裕もないけれど、それでも彼女に伝えなければならないことがあるような気がして、必死に彼女の後を追いかけた。



>>終

2010/11/03

辛抱たまらんかった、っていう。