笑って、泣いて、怒って、笑って。
表情がころころと変わる、忙しい人。
今さっきまで笑っていたかと思えば、次の瞬間には泣きそうな顔。
気分屋、とか。そんなものではなくて。
人一倍素直で、人一倍純粋なのだと思う。
「でねー、弥彦ってば……」
今朝。
弥彦がこの家を出て行った。
『出て行った』とは言っても、悪い話ではない。
左之の言い残したとおり、長屋に移ると言い出したのだ。
弥彦が突然そんなことを言い出したものだから、薫殿は当然のごとく猛反対。
この数日間、薫殿を宥めるのにどれだけ苦労したか。
弥彦と二人、あーでもないこーでもない云々かんぬんだからそれはこうであって…と数日掛けて説得し、渋々納得した薫殿。
しかしながら一人で大丈夫だという弥彦を力で黙らせて、今朝からついさっきまで引越しの手伝いに行っていた…というわけである。
「料理出来るの?って聞いたら、『お前よりマシだ』なんて…」
「弥彦は意外と器用でござるからな。」
「……どーせ私は弥彦以下ですよーだ。」
「おろ。」
今まで当たり前のように傍に居た存在が突然居なくなったことが、よほど淋しいのだろう。
『弥彦』という響き自体、彼女の中で禁句のようである。
ついさっきまで頬を膨らませて愚痴を言っていたと思えば、今はもう目を潤ませていて。
そっぽを向いてそっと目じりを指で撫でる後姿が、どうにもこうにも云々かんぬん。
危ない。
これでも結構予測していたことなのに、いざ本番を迎えてみると予想以上だ。
「薫殿?明日も弥彦は来るでござろう?」
「来るけど…っ、今日はもう…来ない、もん」
「明日。真っ赤な目で稽古するつもりでござるか?」
「だって…、今日、から一人だもん」
「一人?」
搾り出すような声で言い終わったかと思えばぶわっと涙を流した薫殿は、突進するかのような勢いで拙者に抱きついてくる。
この密着度合い、きっと今まで至上最高だと思う。
しかしながらきっと、これ……無意識。
今の薫殿の心の中をのぞけば、
弥彦>>>>>拙者
なのだろう。
その間には超えられない壁だって、あるかもしれない。
「薫殿。」
細い肩にゆるゆると手を回して
良い匂いのする首元に顎を置いて
背中を撫でて
「一人で寝るのが嫌なら、せ、拙者の部屋に、来、る?……という手も、あるのでは、ないかと。思います。」
おそるおそる薫殿の様子を伺いながらそう言った途端、耳まで真っ赤になってピクリと動かなくなってしまった薫殿。
ただ、ちょっと。
ほんのちょっと、自分を意識して欲しかっただけなのに。
まさかこんなにまでも反応されるだなんて、思ってもみなかったのだ。
縁側でしっかりと抱き合ったまま、意地悪をして少し耳を寄せてみれば、瞬時に身体をガチガチにしてそのまま後ろへひっくりかえりそうになってしまう。
本当に可愛らしい人だなぁと、感心し畏れもした昼下がりだった。
>>終
2008/02/21
薫殿は両方の要素を兼ねているんだろうなあと思いながら書き始めたのですが、彼女はきっと天使でも悪魔でもなく、小悪魔です。
無意識は最強の武器ですね。