何を悩むことがあるのだろう。
私がずっと求めていたものは、これではなかったのか。
さらさらと流れていく小川の側にしゃがみ込み、今だなお混乱し続ける頭を整理しようと試みる。
しかしながら考えれば考えるほど、見えなくなっていく自分の本音。
咄嗟とはいえ、どうしてあのような態度をとってしまったんだろう。
固く握り締められた薫の手の甲に、小さな雫が一粒落ちた。
* * *
それは本当に唐突に。
それまでの彼の雰囲気にそのような気配は微塵もなく、いつものように家の縁側で、薫と彼とが二人並んで温かいお茶を飲んでいた時だった。
柔らかい日差し。
緩やかな風に揺れる洗濯物。
全ては普段と変わりなく、いつもの風景がそこにあった。
「いーい天気ね。」
「そうでござるな。洗濯物がよく乾く。」
彼の口から飛び出した所帯じみた言葉に小さく吹き出した薫は、空になった湯飲みを盆の上に置いてぐっと伸びをする。
凝り固まった身体をポキポキ言わせながら左右に捻っていると、やんわりと微笑んだ剣心と目が合った。
「なぁに?何笑ってるの?」
「いや……、薫殿らしいなぁと思って。」
「……何それ?」
にこにこと微笑んだまま真意を隠す剣心に対して、当然のごとく、誤魔化されている側の薫はそれを面白くは感じていなくて。
『女らしくないな、なんて思われているのだろうか。』と、薫は伸びをするのをやめて膝の上で両手を揃えたのだが、剣心の様子に変わりはない。
それどころかいつまで経ってもにこにこしながらこちらを見ている剣心。
そんな彼を前にして、薫の不審はますます高まるばかりだ。
「……あんまり見ないで頂戴。」
「おろ。すまぬ。」
「……ッ、言ってることとやってることが違うじゃないの!」
「あははは!」
剣心が何を考えているのか分からなくて、『子どもっぽいと思われているのだろうか。』『からかわれているのだろうか。』といったような消極的な考えが頭の中には次々とわいてくる。
そして仕舞いには何だか恥ずかしくなってきて、剣心の顔も上手く見れずに目を逸らす。
本当に。彼は何を考えているんだろう。
どうしていつも、私ばっかり空回り?
「薫殿。」
「……なぁに?」
しばらくした後名前を呼ばれたけれども、やはりまだ心が落ち着かずに、そっぽを向いたまま返事をした。
十中八九、剣心はまだ笑っているんだろう。
そんな彼に、どのように対応すればよいのか分からない。
しばらくだんまりを続けていると、ふと背後で何かが動く気配。
しかし薫はあえて、それに気づかない振りをする。
もちろんのこと、剣心は何をしているのだろうか…ということは気になるけれど。
背後で剣心が動いてからしばらくの間、二人の間に張り詰める無音の緊張。
そんな空気に耐え切れなくなった薫が視線を少しだけ動かした瞬間、剣心が小さく息を吸い込んだ。
「薫殿。残りの人生、拙者に預けてはくれぬか?」
「………………」
それは本当に唐突に。
あまりにも突然だったものだから、何をどうすることも出来ずに、口を開けたまま呆けてしまう。
と同時に、不意に、視線が動いた。
彼のほうへ視線を向けることを頑なに拒んでいたはずなのに、自分の視線は引き寄せられる磁石のように、彼のほうを向いた。
想像していたよりもずっと近くにあった、彼の姿。
いつもはへにゃんと温い目元が、今この瞬間だけは真剣で。
不意に掴み取られた腕を引き寄せられて、成す術もなく身体が接する。
そのとき、大きく突き出た喉仏に目をとらわれていたのも束の間。
次の瞬間、しっかりと角度を定められた彼の唇が目の前を流れ、それに気づいた薫は思わずその唇を両手で止めてしまっていた。
「ご…ッ、ごめんなさい!」
「薫殿!」
背中に回されていた彼の腕をすり抜け、履物もとりあえず突っかけた形で、薫は剣心の元から逃げ出した。
履物が上手く履けていない所為で足がもつれて何度も転びそうになったけれど、その都度何とか体勢を立て直して彼から離れていく。
必死に足を動かして、零れ落ちる涙を払い、そこで初めて気がついた。
彼の視線の意味。
彼の表情の意味。
彼の言葉の意味。
彼の行動の意味。
いつもと変わらぬ日常のように思っていたけれど、彼は私を『女』と認識し、自分の『男』の部分を剥き出しにしていたのだ。
それに気づかなかったのは、私。
気づけなかったのは、私。
彼の発する信号に知らない振りをして、目に見えるものを求めてばかりいた。
「薫殿。」
小川に足止めをくらってその場にしゃがみ込んでいた私は、剣心が追いかけてくることは易く想像できたことであったのに、そのときはそれまでのことで頭がいっぱいいっぱいで。
私の後をすぐに追いかけてきた彼に名前を呼ばれて、結果その場から動けなくなってしまった。
心臓が壊れそうなほど大きな動きをする。
鼓動に合わせて喉元が刺激されて、苦しい。
そのような重々しい雰囲気の中、二人の間に重い沈黙が流れるかと思いきや。
意外にも軽い足取りで私の元へ歩み寄ってきた剣心は、そのまま私の隣にゆっくりと腰を下ろしてしまった。
「薫殿。足は痛めていない?」
いつもと変わらぬ剣心の声に、私は小さく頷く。
「明日は……出稽古でござったか?」
その質問には首を横に振った。
すると剣心は瞬時に
「ああ。そういや明後日に変更になったと。この間そう言っていたでござるな。」
と言葉を改めたため、私も小さく頷いた。
……返事を聞きに来たのではないのだろうか?
まだ心の整理がついていないが為にこのような状態で聞かれたら困るのが事実なのだが、それでも意識はどうしてもそちらへ向かってしまう。
人生を預けるということは、それはつまり…そういったことであって。
しかしながらどうしてまた、こんな唐突に?
むしろ剣心は、このような雰囲気になることを避けていたのではなかったのか。
一見打ち解けた風であっても、肝心なところで私に壁を作り続けていた人。
彼にはまだそのような雰囲気が見て取れなかったからこそ、私はあえて距離を置いていたのに。
「薫殿……かおる、どの。か。」
「………な、何?」
「いや。この間ぼんやり考え事をしていたとき、『薫殿』という響きが、いつの間にか癖になってしまっていたのだなぁ……と、気づいたのでござるよ。」
「………………」
「どうやら拙者、相当参っているらしい。」
予想だにしなかったとんでもない事を今目の前で淡々と言われ、呆気にとられている私に向かって、くしゃっと顔を崩す剣心。
今この瞬間は笑うところ?それとも照れるところ?もうどうすれば良いのか分からない。
私はあなたにとって、対象外じゃなかったの?
あなたは今、誰もそういった対象に見ようとしていなかったんじゃなかったの?
目の前で可愛らしく微笑む彼を前にして、彼が次にどのような行動に出るのかさっぱり分からない。
今まで長い間傍で彼を見てきたつもりではあったけれど、今目の前にいるこの人は、少なくとも今までの彼ではなかった。
「薫殿。あえてもう一度、言わせて貰うでござる。」
「は、はい!……、え?」
私の頭が彼の言葉を理解するより先に、膝の上に置いていた手がそっとすくい上げられる。
そしてその手はそのままきゅうっと握られて、瞬間全身を温い衝撃が走り抜けた。
「薫殿の残りの人生を拙者に預けてほしい。一生をかけて、守るでござるよ。」
辺りを柔らかく包み込んでいく夕陽を背にそう言った剣心の表情は、全てを穏やかに混ぜ合わせる不思議な笑顔。
何を悩むことがあったのだろうか。
一瞬戸惑ってしまったのはきっと、彼の気持ちに自分の気持ちが付いていけていなかったから。
彼の言葉は私の頭の奥底に潜んでいた不安をいとも簡単に蹴散らしてしまった。
もうすぐ何かが終わりを告げて、もうすぐ何かが始まっていく。
握られていた手を握り返して、肯定の意味をこめて小さく頷いて見せると、彼はほっと目を細め、とてもとても可愛らしい顔をして喜んでくれた。
>>終
2008/03/05
二人の新しい浪漫譚の始まり。薫殿ー!!!好きじゃー!!!