いつものように引き寄せられて、頬が触れ合った瞬間、何か違和感を感じた。
「……剣心?」
「ん?」
「……なんか、ちくちくしてる。」
「おろ?」
私はそっと身体を離して剣心の顔をじーっと見つめてみる。
そんな強気な態度に出る素振りを見せておきながら、実は目を直接見ることは出来ないのだけれど。
目が合ったって、いつも先に逸らすのは私のほう。
剣心は私と目が合ったとしてもとりわけ驚いたりしないようで、それどころか鹿のようにじーっと覗き込んでくる。
現に今だって、じーっと私を覗き込んでいる剣心。
僅かに斜め上からのじっとりとした視線に、段々と頬が熱くなる。
「……あ!ひげ。」
蒸発してしまいそうな意識の元、顎のラインあたりでちくちくしているそれらを指差してそう言うと、剣心は目をくりくりさせてそれらをパッと手で隠す。
そんな彼の行動を不思議に思い、ふと視線を持ち上げると、そこには少しだけ頬を赤らめた剣心が居た。
「……どうして赤くなってるの?」
「え?い、いや、その……」
「剣心でもひげって生えるのね。」
「そりゃあ拙者も……男だし。」
そう言って少し視線をずらしてしまった剣心は、何故か気まずそうで。
あら?
何か気に障るようなことを言ってしまったかしら?
しかしながらそのような覚えは無いのだけれど。
私は剣心の思っている事がつかめなくて、なおも彼を覗き込む。
すると私の覗き込んだ分だけ、彼は私から離れた。
「か、薫殿。夕餉にしよう。」
「……さっきお昼食べたところだけれど。」
そう。
昼ご飯を食べ終わって、片付けもして、二人してのんびり縁側でくつろいでいたときに頬が触れたのだ。
それまでは剣心は普通だったし、自分から私に近づいてきていた。
それが、何故?
「……剣心。」
「ん?」
私の呼びかけに、いつものようににっこり笑いながら返事をする剣心。
しかしながらいつの間にか、じわりじわり私と距離をとっている。
もしや私がそれに気付いていないとでも思っているのだろうか。
私からすっかり離れた剣心は、先ほどと同じようにゆったりとした仏面を展開していた。
そっちがその気なら、こっちだって。
今現在、どうあっても先ほどの距離に戻るつもりのなさそうな剣心。
そんな態度を取られたら、その変な態度の原因は何なのかどうしても気になってしまう。
剣心はといえば気にしてほしく無さそうに一生懸命笑っているけれど。
私の今の体制は正座。
剣心の体勢は無理矢理後退りしたためか、落ち着かなさそうな変な、胡座……のような感じ。
そして剣心の後ろには何も無い。
すなわち私がこのまま飛び掛ったとして最悪剣心が後ろへ引っくり返っても…それほど害は無いという事だ。
ぺたりと畳にくっついている、私の足の甲。
指先に少し力を入れて畳の目を探り、少し引っ掛かった所を蹴り出しのストッパーにする。
「剣心、私今日は温かいものが食べたいな。」
「温かいものでござるか?」
「昼は暑いけど、夜はまだ少し寒いから。」
「そうでござるなぁ……。ふむ。温かいもの……」
過敏な剣心が、唯一無防備になるとき。
それは、朝・昼・夕飯の献立を考えるときなのだ。
これも長く一緒に暮らしているからこそ発見できた、努力の賜物。
ちょっとずるいような気もするけれど、そうでもないとすぐ気付かれるもの。
今の剣心の思考は、夕飯の献立一直線。
そして私の発射準備はばっちり。
「あ!そう言えばこの間、妙殿に変わった調味料を」
今よ!それいけ私!
「貰って……、って、おろ―――ッ!!?」
我ながら音もなく、蹴り出しもなかなかの良好で、作戦通り獲物を捕らえた。
しかしながら蹴り出しまでしか計算していなかった私は着地の仕方まで頭が回らず、言葉通り剣心を巻き込んで畳の上へ激しくスライディング。
とっさに剣心の頭を抱え込んでいたので、彼が後頭部を打つことは無かったものの、私も剣心も予想外の結果にそのままの体勢でしばし固まってしまった。
「か……薫殿、窒息する……」
「え?……あああ!」
後ろ向きに倒れた剣心の上にどっかりと乗ってしまっていた私は、剣心のうめき声でようやく我に返った。
慌てて彼の上から退くと、そこにはぐったりと横たわる彼の姿。
「あ……あの、剣心……」
怒っている。
絶対に怒っている。
激しく暴れまわった所為で乱れた髪は彼の表情を隠し、大きく上下する胸は疲れを表している。
自分はなんて子どもじみた事をしてしまったのだろう。
もういい歳をした大人の女なのだから、こんなことは慎むべきなのに。
なんて今更な、後悔。
未だ何も話さない剣心を前にして、私はぎゅっと着物の裾を掴む。
泣きそうになるのを何とか堪えて歯を食いしばっていると、剣心はゆっくりと身体を起こした。
「け、剣心……あの……」
剣心に謝りたいと思うのに、声が上手く出ない。
それどころかどんどん頭が真っ白になって、何を言えば良いのかすら分からなくなってくる。
そんなこんなで私が押し黙っている間にも、乱れた身なりをさっさと整えていく剣心。
無言で淡々と進められていくそんな動作が、私の心臓をキリキリとしめつけた。
「け……剣心!っ、きゃ……!」
この空気に居た堪れなくなって立ち上がろうとした瞬間、自分で自分の着物の裾を踏みつけて、私は再度頭から畳へのめり込む。
焦っていた事もあり手をつく事を忘れ、私はモロに顔から突っ込んでしまった。
「…………」
「…………」
ああもう、修正不可能だ。
剣心は今どんな顔をして、私のこの間抜けな姿を見ているのだろうか。
今までこんな危機は何度かあったけれど、今回こそ本当の本当に愛想をつかされたに違いない。
だってこんな、女らしさの欠片も無い女。
付き合っていたところで、何の利もない。
「…………っ、あはは…も、薫殿……」
は?
私は畳に顔を埋めたまま、一瞬耳を疑った。
だって今私の耳に入って来たのは、剣心の笑い声。
幻聴じゃない。……多分。
間違いなく、剣心の声だった。
「相変わらずでござるなぁ、もう。」
そんな声が上から降って来たかと思えば、私の両肩がそっと捕まれる。
そしてそのまま身体を引っくり返されそうになったのだが、思わずそれを拒否してしまった。
「薫殿?」
だ、だってだって……!
我慢していたはずの涙がいつの間にかぼたぼた落ちて、多分鼻からも何か出てるんだもん!
こんな顔見られたら、私お嫁に行けない……!
「薫殿?大丈夫でござるか?どこか打った?」
「ち、違うの。あの、大丈夫だから。」
「本当に?どこか痛めたのであれば、ちゃんと診てもらわねば。とりあえず薫殿、顔見せて。」
だからそれが嫌なんだってば!!!
そんな乙女の事情は露知らず。
剣心はまるで亀を引っくり返すかのような手つきで、薫を引っくり返そうと一生懸命になる。
「薫殿。意地っ張りは可愛くないでござるよ。」
「ど、どうせ私は可愛くないわよ!!!」
あ。
し…………まった。
剣心の言葉についムッときて、がばっと身体を起こしたその目の前。
そこにはびっくりしたような表情の剣心がいて、私はさーっと血の気が引いていくのを感じた。
「おろ。薫殿、顔ぐちゃぐちゃ。」
ぐ、ぐちゃぐちゃ!?
おそらく当人に悪意はないであろうその言葉は私の頭に金タライを落としたような衝撃を走らせ、いとも簡単に私の頭を真っ白にしていく。
放心する私に構わず、ぐちゃぐちゃな私の顔を手拭いて丁寧に拭う剣心。
この男は、そういう男である。
「急に飛び掛ってきては危ないでござろう。顔に傷でもついたらどうするつもりでござるか。」
「……だって剣心が急によそよそしくなるからつい、ムキになっちゃって……」
「え?……あ、ああ」
思い出したかのようにそう言ってまた顎を抑えて頬を赤くした剣心は、再びぷいっと向こうを向いてしまった。
頭の中にまた、不安がよぎる。
「ね、どう……したの?」
「…………」
「私、何かした?」
「ひ………」
「ひ?」
「ひげ…………」
ひげ?
わけが分からず首を傾げる私とは対照的に、剣心は真っ赤になって俯いていて。
そんな剣心に問い直そうとした瞬間、ずっと押し黙っていた剣心がゆっくり口を開いた。
「そういうの……嫌でござろう?」
「え?」
「だから……、ひ……」
「ひげがどうして嫌なの?」
「だから、その、ちくちくしてるのとか、嫌でござろ?」
「……そんなこと気にしてたの?」
今までずっしりと圧し掛かっていた気が弛み、私の身体は雪崩に飲み込まれるようにどさりと崩れ落ちる。
脱力から出た言葉は剣心にとって少しショックなものであったようだが、もうそんなことは構っていられなかった。
「か、薫殿……」
冗談じゃない。
私のあの恥さらしは、一体何だったのよ。
私は出来る限りの精一杯の恐い顔をして、軽く彼を一睨みする。
すると律儀に、顔を引き攣らせる彼。
剣心が一瞬怯んだ隙を見計らって、私は再び彼に、今度はゆっくり抱きついた。
「………ちょっとくすぐったいけど、大丈夫。」
「………じゃあすりすりしても良いんでござるか?」
「………それは嫌。」
「えー!!!」
非の打ち所の無い人なのにちょっとだけ不器用で、ちょっとだけ子どもっぽくて。
何にでも真剣に悩んでしまうそんな彼が可愛くて、不覚にもきゅんとしてしまった、ある昼下がりの出来事。
>>終
2007.5.19