その出来事は今朝、起こるべくして起こった。
今日は出稽古があったので、いつもより早く起きる予定をしていた。
そして、午前四時。
早く起きた朝は二度寝や三度寝をすることだってザラじゃない自分が、きっちりと目を覚ましたのは良いのだが
どうにもこうにも身体の様子がおかしい。
悪寒、頭痛、節々の痛み…そして何と言っても身体のだるさ。
目蓋がジンジンと熱くて、足元がフラフラする。
今朝の自分の体調に疑問を感じながらも、とにかく胴着に着替えて、顔を洗って、剣心のいる居間へ向かう事にした。
食器がカチャカチャと音を立てている。
「おはよう、剣心。」
取り敢えず、朝の挨拶。
すると剣心は水に濡れた手を拭いながら、にっこりと微笑んだ。
「おはよう、薫殿。」
その時は剣心の笑顔で、何だか全て吹き飛んだような気がして。
「今朝のあれは、気疲れだったのかな?」などと思いながら、所定の位置に腰を下ろす。
そして二人で手を合わせて、食前の挨拶をして、たわいのない話をしながら、朝ご飯を食べていた。のだが。
「薫殿?如何かしたんでござるか?」
「え?」
剣心のその何気ない一言で、今さっきまで忘れていた感覚がじわりじわりと蘇りはじめる。
更に、自分では普段どおりに朝飯を食していたつもりだったのだが、
実際自分の茶碗の中の飯の量は、剣心に盛られ手渡された時と何等変化はなかった。
箸の進まない自分を見て、不思議に思ったのだろう。
心底心配そうな顔をしてこちらを見る剣心と不意に目が合って、余計な熱が上がる。
「な…何でもないわよ?」
反射的に口をついて出た言葉。
「そうでござるか?」
私の返事に剣心はあまり納得がいかなかったのか、明らかに顔の上に【疑】という文字を浮かび上がらせ、
綺麗に整った眉をゆがめていたが、しばらくして後、茶碗の上に置いた箸を持ち直して食事を再開させた。
そんな剣心の行動を見届けてから、自分も食事を再開したのだが、どうにも味が分からない。
大好きな卵の厚焼きも、少し辛めの塩鯖でさえも。
唯一喉をすんなりと通ったのは、野菜が沢山入ったお味噌汁だけだった。
しかし、朝から頑張って作ってくれた剣心の事を思うと、どうにも残すのは忍びなくて、
すっかり重たくなってしまった口をこじ開け、吐きそうになるのを我慢して、
茶碗の中に残ったご飯を口の中へ掻き込んだ。
「じゃあ、そろそろ行ってきます。」
先程の騒動でごちゃまぜになってしまった胃の中を熱いお茶で鎮まらせて、一呼吸置いて立ち上がる。
「あぁ、気をつけて行っておいで。」
剣心はそう言って飲んでいたお茶を静かにちゃぶ台の上に置くと、静かに着物の袖を結んでいた襷を解いた。
私を玄関まで見送る為に私の後をついて来てくれる剣心を見て、すっかり気が緩んでしまったのか。
次の瞬間、思いっきり敷居につまづいて、勢い良く身体が前方に倒れこむ。
「きゃ…っ///;;!!」
ドサッ・・・
感じるはずの痛みが感じられずにおそるおそる目を開けると、目の前に広がったのは少し色褪せてしまった緋色の布地。
温かくて、柔らかくて。 出来る事なら、このまま眠ってしまいたい。 けど…
「あ…あの;剣心? ありがと。もう……」
『もう大丈夫』と言おうとした瞬間、頭上から喉を唸らせたようなため息が聞こえた。
「やっぱり。 薫殿、熱があるでござるよ。」
「え?」
「何だか涙目のような感じでござったから、もしや…とは思っていたが。」
「ちょ…ちょっと、大丈夫よ。熱なんか無いってば。」
そう言って抱きとめられたままの状態から身体を剥がそうとした瞬間、剣心の額が薫の額にピタリとくっつけられる。
途端に燃える様に熱くなる、自分の身体。
「大丈夫なわけが無いでござろう。熱も少し高めでござるよ。」
少し怒っている風な彼の口調。
な…何よ、剣心がいきなりそんな事するからじゃない///
「剣心がおでこくっつけるからよ;;///…っ、もう弥彦が来るからっ。」
「薫殿。自分の身体は自分が一番良く分かっているでござろう?そんな身体で出向いても、前川殿に迷惑でござる。」
低く、唸るような声。
本気で…怒っている。
まるで金縛りにあったみたいに、身体が固くなって。
かろうじて口を開けても、声が出ない。
すっかり黙り込んでしまった私を見て、剣心がもう一度何か言おうと小さく息を吸った瞬間、
玄関の戸がガラリと音を立てて開いた。
そして、その隙間からおそるおそる顔を覗かせたのは弥彦。
弥彦も剣心のただならぬ雰囲気を感じたのか、剣心の顔色をうかがいながら薫に尋ね掛ける。
「もう…そろそろ時間だけど…。 …どうかしたのか?」
「あ…、ごめん…」
正直弥彦が玄関の戸を開けたとき、助かったと思った。
この重苦しい雰囲気から、一刻も早く逃げ出したかった。
剣心の言葉を無視してしまったような形で弥彦と話していると、背中に剣心の視線が痛いくらいに突き刺さってくる。
緊張と焦りで震える手を、出稽古の用具に伸ばした瞬間…
「薫!!!」
吃驚して振り返る。
今まで聞いた事も無い、剣心の怒鳴り声。
私も、隣に居た弥彦も、何も言えなかった。
そんな怒鳴り声に不似合いな、あの時の剣心の悲しそうな瞳が脳裏に焼き付いて…
そしてそれから約一時。あれから一度も口を聞いていない。
剣心があんなに怒るなんて思わなかった。
あんな風に怒鳴られたのも、そんな彼を見たのも初めてだった。
初めて【薫】と呼ばれたのに…
それがこんな形だなんて。
じっと見つめていた天井の木目が、じわりじわりと滲み始める。
そして次の瞬間、こめかみを流れ落ちる冷たい感触。
この部屋の空気を換えて。
お願いだから、その冷たく閉ざされた障子を開けて。
ほんの少しでいいから、姿を見せて。
声を聞かせて。
本当は知ってるの。
貴方がずっと、半刻ごとくらいに足音を消して様子を見に来てくれてる事。
知っていて、貴方から許してくれる事を待っている。
自分から謝る勇気が無い。
こんな自分が大っ嫌い。
視界がぼやけすぎて、もう何も見えない。
辛うじて声を押し止めていると、仰向けになって寝ていた所為か、急に気管の変な部分に空気が入った。
突然の事に身体が驚いて、やけに大袈裟な咳が出る。
息を上手く整えられなくて苦しさのあまり布団を握り締めていると、
「薫殿!!」
聞きなれた声と共に、それまで固く閉ざされていた障子は開け放たれて
声の主を目で捕らえる間もなく、背中に温かな感触が広がった。
「大丈夫でござるか?苦しいでござるか?」
ふと気づけば、目の前には心配そうな顔をした剣心の姿。
一生懸命私の背中をさすってくれている。
「薫殿?」
「剣…心…っ、ごめ・・なさ・・・」
また涙が溢れ出す。
すると剣心は全てお見通しなのか。
にっこりと、いつもの笑顔で微笑みかけてくれた。
「どうしたでござるか?薫殿。」
「剣…しぃ、ん…。ごめんなさい…ごめ・・・」
気付けば剣心に思いっきり抱きついていた。
剣心もまた、私をしっかりと受け止めてくれていた。
不安で不安で堪らなくて、押しつぶされそうだった圧迫感がふわりふわりと消えていく。
こちらが出稽古を頼んでいる身だから、そうやすやすと稽古を休むわけにはいかなかったとか
何だか幸せすぎる生活に慣れてしまって、剣術の腕が落ちているようで焦っていたとか
取って付けたような言い分は後からどんどん浮かんでくるけれど、やはりただの言い訳にしかならなくて。
一言文句を言ってやろうなどと考えてはいたものの、剣心の顔を見たら何もかも吹っ飛んでしまった。
「薫…」
ドキリ。
「殿。」
なんだ・・・。
それまでぐんぐんと上昇気流に乗っていた期待が、一気に下がった。
絶対剣心ワザとやってる。
だって背中が震えてるもの。
「…薫殿。」
「はい…;;」
「頼むから…自分の身体は大事にして欲しいでござる。薫殿の真面目な性格も、神谷活心流への思いも
拙者、ちゃんと分かっているつもりでござる故。」
「剣心…」
「さて、薫殿。そろそろ眠らねば、風邪が悪化してしまう。」
そう言って剣心が薫を寝かせて布団を掛けようとした時、薫がそっとその手を止めた。
「薫殿…?」
「ちょっと待って。 …何するつもり?」
「何って…、布団を…」
不思議そうな顔をして剣心がそう答えると、薫は真っ赤になって怒りだした。
「そうじゃなくて!!一緒に布団の中入って、何するつもりなのよ///;;」
「おろ。」
掛け布団を背に覆い被さってくる剣心の胸を、真っ赤になって押し上げる薫。
「ちょ…っと、馬鹿ッ///風邪うつっちゃうわよぅ///」
「風邪は人にうつした方が、早く治る…と言うし。」
「真面目顔で変な理屈言わないで!!馬鹿ぁ///」
そして一刻ほど争った後とうとう薫が折れ、そして翌日薫の風邪は更に悪化したのだとか。
めでたしめでたし。
>>終
2005.3.13