どこまでも限りなく広がる空が、徐々に橙色に染まりつつある頃。
人のあまり通らぬ道の端で、大きな岩に寄りかかる影が二つ。



「とーちゃ、かーちゃのとこ行くー。」

「剣路。ここで待っていれば、かーちゃは来るでござるよ。」

「いや!行く!」



困った。
先程まで大人しく一人遊びをしていてくれたのに、子どもの気というのはすぐに変わってしまうようだ。
今まで地面に絵を描いていた棒を放り投げ、更に袴の裾まで引っ張り出した。

今日は薫殿は朝から旧友の元を訪ねている。
それゆえ剣路と共に留守を託され快く引き受けたものの、どうやら現実はそう甘くはないようだ。

基本的には大人しく良い子にしていてくれるのだが、どうやら母親の愛情は効果が切れてしまうのが早いらしい。
昼頃から薫殿に会いたいと言われ何とか寝かしつけたものの、
二刻もすればすぐに目を覚ましてまた薫殿に会いたいとわめかれた。

ついには完全に拗ねて拙者の言う事にも耳を貸さなくなったので、
仕方無しにここまで剣路を連れてきたという訳である。



「かーちゃ、まだ?」

「もうちょっと・・・でござるかな?」

「ぅー・・・」



俯いて黙り込んでしまった剣路の顔を覗き込むと、剣路は下唇を噛んで目頭を熱くさせている。

おろ…。 泣く!?


あぁ、困ったでござる。助けてくれ、薫殿。
こういった時に、母親と言うものはやはり大きいのだなぁ、としみじみ感じた。

あと5秒もすれば泣きそうな剣路を目の前に、気分はまるで爆弾を抱えた心地。
一人どうする事も出来ずに、ただただ慌てふためくばかり。

そんな折自分の足元から伸びた、長い影が視界に入った。
気付けば陽はすっかり西の方へ傾いていて、
橙一色だった空にもじわりじわりと時雨れるように紺が混じり始めている。



「剣路、影送りをしようか。」

「かげ?・・・くり?」

「影送り。そこにある剣路の影をとーちゃが10数える間、瞬きせずに見るでござるよ。」



そう言って不思議そうにこちらを見上げる剣路の手を取って、ゆっくり10を数え始める。
愛しいあの女【ひと】が、早く現われるよう祈りながら。


「ひとーつ」


そういえば、昔もこのような事をした覚えがある。


「ふたーつ」


確かあれは、恵殿に自分の身体の状態について打ち明けられた日の帰り道。


「みーっつ」


木漏れ日が水面に反射して、煌いていたのがとても綺麗だったのを覚えている。


「よーっつ」


ある程度覚悟はしていたつもりだったのに、他人の口から改めて聞くと、自分の辿るべき運命が急に恐ろしく思えて。


「いつーつ」


初めて、死というものがとても恐ろしく感じられた。


「むっつー」


今目の前にあって当然のものを全て無くし、何の痛みも感じなくなる。


「ななーつ」


そんな風になってしまうのが、怖くて・・・ただ、怖くて・・・


「やっつー」


川べりに腰を降ろして言葉を詰まらせた自分を、薫殿はその胸に優しく抱き寄せて


「ここのつー」


何も言わず、ただただ頭を撫でて


「と・・・ぉ・・・」


泣かせてくれた。















「・・・とーちゃ?」



握っていた手をくいくいと引っ張られて、ふと我に返る。
どうしたのかと思いしゃがんで剣路と目線をあわすと、剣路の小さな手がふと拙者の目尻をなぞった。



「かーちゃに会いたいの?」



涙が零れていた。



「とーちゃ、さみしいの?」



喉が引きつけられる様に、熱く苦しい。

湧き上がる涙を隠すように目の前の剣路を、ぐっと抱きしめる。



「あぁ、会いたい・・・。」



この子は、この先覚えていてくれるのだろうか。
自分という父親が居た事を。

自分を思い出して、泣いて欲しいなんて言わない。
ただ、記憶の中に一欠けらでも自分が存在していたら。



あの時も、薫殿は・・・
「貴方は私がどこへも行かせない・・・今ここで空に影を送ろう」と言い出した。

「貴方を父と母に見せたいの。」とも。



透きとおるような声で紡がれる数に耳を沈めて、また一つ涙を零した事を薫殿は知っていたのだろうか。



影は段々と薄くなり、いつかは闇に飲み込まれる。

でも、今は大丈夫。



決して消える事の無い優しい光が、側で拙者を照らし続けてくれるから。










>>終

2005.3.27