わけも無く、唐突に顔が見たくなったりし始めたのはいつからだった?
同じ家に住んでいるというのに、違う部屋に居るだけで焦るような気持ちになるのはいつからだった?
彼に対して、少しでも良い印象を持ってもらおうと、可愛らしいことばを選ぶようになったのは、いつからだった?
他の女の人と話す彼を見て、心臓がぎゅうっと痛くなるようになったのは、いつからだった?
* * *
「…………」
吃驚した――
ぼんやりとした意識の下。
ふと目を開けると、すぐ傍に薫殿が寝ていた。
温く、くたくたになった手拭を額からそっと剥がして、枕元にある手桶の中に沈める。
すると桶の中に入っていた冷たい井戸水が少しだけ跳ねて、指先を僅かに濡らした。
「薫殿。」
彼女の名前を呼んで肩を少し揺らしてみるものの、彼女は依然うずくまったままで。
風邪がうつるといけないからあまり傍に居るべきではないのだけれど、今は高い熱の所為か上手く身体が動かない。
おそらくずっと看病をしていてくれたのだろう。
枕元にはまるでジャガイモのような形に剥かれた、りんごがあった。
「薫殿。」
もう一度揺すってみる。
彼女を起こそうと思って。
しかしながらつい今しがた自分の口から出た声はさきほどのものよりか随分小さく、揺する力もまたひどく弱弱しい。
自分は彼女を起こす気がないのだ。
そう気づくまでに、時間はかからなかった。
長く艶のある髪にそっと手櫛を入れて流すと、さらさらと水が流れるように滑り落ちる彼女の髪。
その感触が何だか心地よくて、こんな風に彼女の髪に触れるのは新鮮で、飽きずにいつまでも彼女の髪をいじる。
前髪の隙間から少しだけ見える彼女の目。
長い睫毛は綺麗に向きをそろえていて、実に見目麗しい。
ピンと張りの良い頬は、意外にもとても柔らかく。
指でそっとなでると、肌が指先に吸い付くような錯覚が起こる。
しかしながら不意に彼女の顔を少し見たくなって。
何故か不意に。
しかし、欲求はとめられず。
右手を宙に彷徨わせてあちらこちらを行ったりきたりしていたのだが、それもそろそろ限界で。
何を血迷ったのか、伸ばした指先でそっと薫殿の前髪をかき上げた。
ら。
「け…剣心」
そこには耳まで真っ赤にして、もう耐えられないといったような様子で布団に顔を押し付ける薫殿の姿。
薫殿が起きていたことに気づいた瞬間、頭からは血の気が引いていくわ、顔からは火が出るわで、とりあえずは色々と大変な状態であった。
さて。
真っ赤になってしどろもどろになる薫殿によると、どうやら彼女はただ単に最初から寝た振りをしていただけのようで。
『自分(薫殿)が目の前に寝ていたら、剣心はどんな反応をするのか見てみたかった。』らしい。
…なんと恐ろしい発想でござろうか。
良かった。薫殿が先に折れてくれて。
そうでなければ、あの先自分は一体何をしていたのか。
考えただけで、実に恐ろしいでござる。
そして薫殿は頭を下げっ放しで必死になって謝ってくれているのだが、えっと…その。
もう謝ってくれなくて良いから、それよりもまずこの距離を何とかしてほしい。
というのも、部屋の真ん中に敷かれた布団。
自分は今現在この布団の上に座っているのだが、薫殿のいる位置は部屋の入り口のすぐ傍で。
ということは、自分と彼女の間にはだいぶ距離があるわけで。
どうやら先ほどの自分の行為が薫殿には相当応えたようで、多分拙者が一寸でも動こうものならその瞬間にこの家自体を飛び出していきそうな、そんな感じ。
これまで気づかれないようにゆっくりゆっくり詰めてきた距離が、振り出しよりも遥か向こうへと広がってしまったようだ。
あの柔らかい頬に堂々と触れることが出来るようになるのは、一体いつのことやら。
そう考えるとまたどっと疲れが戻ってきて、結局2日間も寝込むことになってしまった。
>>終
2007.12.17
御題提供:ゆーき様
長い流浪人生活のせいで女の人への触れ方を忘れてしまった緋村は、薫殿の一挙一動にドッキドキすれば良い。