思考は止まり、静かな部屋に妙な緊張感が張り巡った。
夜
場所は薫殿の部屋
目の前の薫殿は拙者の寝間着の袖を掴んだまま、先ほどからじっと押し黙っている。
おそらく、今しがたの自分の発言に少しばかりの後悔を覚えているのだろう。
「・・・薫殿、まだ身体の調子が優れないでござるか?」
風邪がまだ治りきらなくて、心細いのだろうかと思った。
薫殿の愛情表現はいつも淡白だから。
そんな大胆な発言は、今までしたことが無かったから。
しかしながら、今夜は少し事情が違った。
「今夜は・・・側にいて欲しいの・・・」
「しかし・・・」
「だめ・・・?」
だめ?と聞かれても、どう答えて良いのやら。
側に居たくない訳ではない。風邪がうつるかも知れないことを危惧している訳でもない。
人間と言うものは、実に厄介でござる。
考える…という事をしてしまうからこそ、必要以上に悩んでしまう。
もっと即物的に…素直に行動できれば良いのに。
焦って、時を誤って、空回りをして。しなくても良い筈の多くの苦労をしてしまうのだ。
もし思慮や分別という機能が人間に搭載されずにいたら?
この辛くどうしようもない想いなどは、最初からせずに済むであろう。
「薫殿、拙者が此処にいては薫殿の身体に障ってしまう。治る風邪も、治りが遅くなってしまうでござるよ。」
「・・・・・」
「今夜は温かくして・・・拙者は居間に居るでござるから。何かあったら直ぐに・・・」
「もういい・・・」
「薫殿?」
「もういい。もう出てって・・・、っ」
そう言って薫殿がふいと向こうを向いた瞬間、胸元を握り締めて薫殿が激しく咳き込んだ。
薫殿の風邪は、熱はそこまで上がらなかったにしても、ひどい症状を見せたのは咳だった。
恵殿によるとどうやら気管が炎症を起こしているらしく、一端咳き込むと中々咳が止まらないのだ。
息も出来ぬほど咳き込むゆえ、咳をしだしたら気をつけて看る様に…と恵殿から念を押されている。
目尻に涙を浮かべながら咳き込む薫殿の背中を慌ててさすっていると、薫殿はぐいと拙者の胸を押し返した。
「も…い、から・・・出てって・・・っ」
「薫殿。一先ず息を・・・」
「出…てっ・・・て・・・、っ」
弱々しい力でぐいぐいと拙者の胸を押す薫殿の息は段々と絶え絶えになり、咳の頻度は間隔を迫らせている。
それなのに息を整える事そっちのけで、拙者の胸を押し返そうとする薫殿。
どうしてこんな事になった?
どうしてこんな辛い思いをさせてしまう?
本当はこんなことをさせたい訳では無いのに。
薫殿の想いを汲んで、一晩中側で見守ってやる事も出来たはずなのに。
拙者の胸を押し返す薫殿の細い手首を捕まえて、その身を引き寄せ抱きしめる。
背中を摩りながら息を整えるよう促し、薫殿の呼吸が戻る時を静かに待った。
「出て行くでござるから・・・。頼むから、息を整えて。」
薫殿の耳元で静かにそう告げると薫殿の咳は収まりを見せ、
代わりに腕の中の薫殿からは必死に涙を堪える声が聞こえてきた。
「ごめんなさい・・・、ご、めなさ・・・」
どうして泣くのか、と尋ねてもただただ泣きながら首を振るばかり。
如何すればよいのか分からず「すまぬ」と一言漏らすと、薫殿は喉に声を溜めて一層大きな涙を零した。
「薫殿。拙者が薫殿の申し出に躊躇ったのは、薫殿の側に居たくないとかそういった理由ではござらんよ。」
「・・・っ、もぅいいの・・・っ、ごめ…なさ・・・」
「まだ自分の気持ちを十分に抑えられるほど、一人の人間として中身が出来ていなかったからでござる。」
「け・・・」
「しかしながら…こんな風にぼろぼろになってしまっている御仁を置いては、出て行けぬでござるな。」
呆ける薫殿の大きな瞳に溜まった大粒の涙をそっと舌ですくって、その細い身体を抱えたまま我が身を横たえる。
自分の腕の中で顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうに目を伏せる薫殿のこめかみに啄ばむような口付けを施して、
すっかり冷えてしまった細い身体を少し力を入れて抱きしめた。
今夜はおちおち眠っていられないでござる;;
既に夢の中におちてしまった薫殿の顔にかかる髪をそっと払って、とりあえず固くなってしまった目蓋を閉じた。
>>終
御題提供:ナキ様
2005.4.3