「……剣心。おめー、体調かなんか悪いのか。」
「拙者は至って健康でござる。」
「じゃあなんで……」
「左之……頼むから放っておいてくれ。」
「てっきり俺はもうじ」
「そして薫殿には絶対に余計なことは言うな。」


うららかな春の日の午後。
居間で薫殿とのんびりしていたら、いつものようにふらりと左之がやってきた。
そんな左之にも茶とちょっとした菓子を出し、その後は三人で軽い世間話。

するとこれまたいつものように、何故か話が艶めいた方向に転がり出して、そういったものが苦手な薫殿はあからさまに目を逸らす。
左之と二人でいるときに、このような話ばかりしていると思われたら嫌だなぁと思いつつも、適当に相槌を打つ自分。
しかしながら逃げる薫殿をわざわざ巻き込んで左之が話を進めるものだから、さすがにこれはまずいと思い諫めようとしたところ、左之は意外とあっさり引き下がった。

そして「話がある」と言いながら拙者の腕を引っぱり上げ、ずるずると引きずられた身体は部屋の隅へ。
一方でやっと解放されたと言わんばかりに飛び退いた薫殿は、「道場の掃除をしてくる」とか何とか言いながら部屋を飛び出してしまった。

瞬間、“ああ、これでまた一歩引かれてしまった”と安易に想像がつく自分。
今日の夜もまたぎこちないのだろうなぁと思うと、肩の辺りにズシリと重みがのしかかる。

拙者も一人の“男”なのだとようやく意識してくれたまでは良かったのだが、その後が想像以上に難解だった。
普段通りに接しているつもりでも、あちらは突然拙者のことを意識してしまう瞬間があるようで、しばしば急に顔を赤らめては目を逸らして走り去る。
そういった薫殿の反応を当初は可愛らしいと感じていたのだが、いかんせんその状態が何ヶ月も続くと――こちらとしても少し複雑で。

そろそろ大丈夫かなと思いつつその頬に手を伸ばすと、途端に真っ赤になって再び拙者を警戒し始める。
そんな彼女のこともいとおしいと思うし、自然に流れを任そうとも思うけれど……。
薫殿、そろそろ拙者に慣れてくれませんか。

そのようなことを考えながら日々を悶々と過ごしていたら、左之のこの発言である。


「嬢ちゃんの反応が前と全く変わらねぇんだが、どうなってんだ?」
「……どうも何も、若い女子にそういった話はご法度でござろう。」
「けど、おめーと毎日一緒にいるンなら、ちったぁ免疫ついても……」
「…………」
「……まさかおめー――!」


話の中で何かを察知したらしく、嬉しそうに口を開いた左之。
そんな左之の口を慌てて塞ぐと、それがどうやら無言の肯定となってしまったのだろう、左之がにやりと口角を上げた。
しかしながら、左之はおそらく薫殿と拙者の関係を見抜いているのだろう。
拙者の弱点を掴んだと言わんばかりの嬉しそうな表情でそれ以上を追及して来ないのが、その証拠だ。


「年取ると勢いがなくなるのかねぇ。強引に押しちまえば良いのに。」
「失敬な。それに無理強いはいかんでござるよ。」
「あのな。迫れって言ってるだけで、襲えって言ってんじゃねぇんだから。」
「はぁ……。拙者にはその違いが分からん。」


左之はわざとらしく頭を抱えると、はぁぁと盛大なため息。
そして拙者にちらりと視線を送ると、またもや大きなため息を吐いた。
何なんだと尋ねると、「別にー」などと言いながらしっかりと茶を飲み干し、玄関へ向かう。
どうやら左之は今日もまた、拙者と薫殿の間を引っ掻き回しにきただけであるらしい。


* * *


さて。
左之は帰ったものの、薫殿の姿が居間にないということは、おそらく彼女は今も道場で項垂れているのだろう。
下手に声を掛ければ警戒して逃げ出してしまうだろうし、薫殿が落ち着くまで洗い物でもして待つか。

そう思い、台の上に放ったままにしてあった湯飲みやら小皿やらを盆にのせているうちに、ふと左之との会話が頭に浮かぶ。

――強引に押しちまえば良いのに。

いやいやいや!
何を考えてるんだ、自分は。
おかしいだろう。馬鹿だろう。
こんな天気の良い日の真昼間から、一瞬とは言え良からぬ想像をしてしまった自分が恥ずかしい。

動揺を抑えきれずに指先が震えるせいで、カチャカチャと音を立てる器たち。
そんな自分が既に末期症状のようで、おそろしい。


「……剣心」
「ッ、わ!」


そしてそのような自分を抑えるのに必死であったために、薫殿の気配がすぐそこまで迫っていることなどまるで気づかず、柱の陰からひょこっと顔を覗かせた薫殿を見て必要以上に驚いてしまった。
普段出さないような自分の声に、自分自身はもちろんのこと、薫殿も目をぱちくりさせて驚いている。


「あ、あの、ごめんなさい。驚かすつもりは……」
「い、いや。拙者がぼーっとしていただけでござるから。こちらこそ驚かせてすまない。」
「……左之助帰ったの?」
「ああ。今しがた。」


ほら、やっぱり。
一見ごくごく普通の会話だが、拙者と薫殿の間の距離は人二人分くらい空いていて。
二人を包む空気も、何となく心地が悪い。

相当警戒されているなぁと心の中で苦笑いをしつつ、薫殿の横を通り抜けようとしたところ、後ろでふと何かが動く気配。

それが何かを確かめる前に、振り返る前に。
弱い力で引っ張られた背中に、コツンと何かがもたれ掛かる。

一瞬何が起こったのか、まるで分からなかった。
しかし、着物を引っ張ったのは薫殿で、背中に緩く当たったのは薫殿の額で。
全ての疑問の答えが一直線に繋がったとき、あまりの衝撃に危うく盆を落としそうになった。


「薫、殿?」
「や……、ダメ!こっち向かないで。今……その」


今更拒んだところで、薫殿がどのような状態になっているかなんて安易に予想がつく。
真っ赤になって、まるで泣きそうな表情になっているのだろう?

その表情を見るたびに、いつも自分の中で葛藤が起こる。
自分の弱い部分を鷲掴みにされるから。
その表情を、本当にいとおしいと思うから。

手に持っていた盆を静かに台の上に置くと、背中の薫殿がビクリと身体を震わせた。
そんな彼女の反応にまたもやくじけそうになるけれど、今このときに限ってはどうやら自分の気持ちは相当高ぶっていたらしい。

薫殿の言葉を無視して振り返ると、そこには顔を真っ赤にして目を潤ませた彼女の姿。
薫殿はいつもそうなのだ。
照れると目が潤む。


「薫殿」
「や……っ、見ないで」


掌で顔を隠しながら後退する薫殿に歩み寄って、そっと彼女に手を伸ばす。
ここまでは本当に無意識で、その流れのまま震える彼女の身体を抱きしめたとき、予想以上に華奢であることを感じてようやく意識が現実に追いついた。

細い身体、柔らかい肌。
鼻腔を掠める落ち着く匂いと、熱い頬。

全てが今初めてこの腕の中にあるのだと思うと何とも切なくなってきて、更に身体を引き寄せる。
色々と思い悩んでいたときはどのようにして触れれば良いのか分からなかったけれど、その答えは意外と簡単であったらしい。

柔い肌に耽っているうちに薫殿の膝がガクリと崩れて、二人してずるずると畳の上に座り込んだ。
すると薫殿の両手が自分の背中におずおずと回されて、その指先がそっと着物を掴む。

「薫殿、顔真っ赤。」

自分の腕の中で動けなくなってしまっている薫殿を少しでも軽くしようと囁いた言葉は、薫殿をますます慌てさせてしまったようで。
薫殿はピクリと身体を震わせたあと口を噤んでしまったけれど、それでも以前のように逃げ出すことはなく、拙者の肩にじっと顔をうずめた。


「ごめ、なさ……い」
「どうして?」
「あんなこと、するつもりじゃなかったの。ただ剣心に触れたいなって思っただけで……」
「…………」
「でも本当に触れるつもりじゃなくて、気づいたら、勝手に……」


人が必死に理性を保っているというのに、何を言い出すのかこの御仁は。
マズイ。ああ、マズイ。
自分の中の良からぬものが、耐え切れずに飛び出してしまいそうだ。

暴れ出しそうな欲望を必死に抑えながら薫殿の耳に口付けると、小さく鳴いた薫殿がその身体を震わせる。
そんな薫殿の反応がすっかり中毒となってしまった自分は、その後も溺れるように彼女の身体を啄ばんだ。


「剣心ッ……、や!も、ダメ……!」


そしてそのような行為に夢中になっていたために気が付かなかったのだが、見れば腕の中にいる薫殿の着物は相当乱れており、真っ赤な顔をした彼女はぽろぽろと涙を流していた。
瞬間、熱に浮かされていた自分の脳内は一気に冷めて、慌てて薫殿の着物を正しに掛かる。

薫殿が掌で自分の唇を止めてくれなかったら何をしていたか。
想像しただけでも、恐ろしい。


「薫殿、すまない。」
「……ッ、違う、の。」
「え?」
「ちょっとだけ、もうちょっとだけ……待って。」


そう言ってまた一つ大粒の涙を流した薫殿を見て思わず手を伸ばしそうになったけれど、当初の欲望を何とか押さえ込んで、彼女の身体をそっと包み込んだ。

やっぱり可愛い。
いとおしい。

逃げ出さぬよう、壊れぬよう。
薫殿の身体をゆっくりと抱きしめ直して、再びその香りに耽った。



>>終

2010.07.21
春霞を背に微笑んだ緋村氏を見て、薫殿はきゅんとなったそうです。
そして思わず緋村に触れてしまったのですが、肝心なところが全部抜けてる!笑