橙色の細かな花弁が、一面を埋め尽くす。
何とも言えぬ良い香りに浸っていると、後ろからゆるりと伸びた手が私の腰を捕まえた。

「良い匂いでござるな。」

「け、剣心。近い。」

「何を今更。」

「今更も何も、こういうものは段々慣れるのであって……」

「では、こうやって共に風呂に入るのは、もう慣れたということで?」

「慣れるわけないでしょ!」

そう言って彼の顔にお湯を掛けると、彼は「わ!」なんて言いながらも、楽しそうにくすくす笑っている。
そして湯に浮かんだ金木犀の花弁を指先で弄びながら、私の耳たぶを口に含み舌先で転がした。

その瞬間、くすぐったいのと切ないのとで、身体がぎゅっと収縮する。

「や、やっぱり、お風呂は一緒に入るものじゃないと思うの。」

「しかし物は試しと言うでござろう?それに、早く入らねば香りが消えると急かしたのは、薫殿ではござらんか。」

「私は別にそういう意味で言ったんじゃ……!」

熱を帯びているのが分かるほどに頬が熱くなって、思わず剣心から離れようとした瞬間、何故か私の身体はぐるりと回り彼に向き合う形に。
それまでは私の後ろに彼が居たので直接目が合うことはなかったのだが、彼の太ももの上に私の身体が乗り上げるというこの体勢は、非常に恥ずかしい。

「薫殿。」

「ッ、な、何よ!」

「真剣な話をしよう。」

「え?真、剣な話?」

こんな体勢で真剣な話などできるか!と思いつつも、彼の口から飛び出した予想外の言葉に、私は不思議と冷静を取り戻す。
そしてやや身構えながら彼の言葉を待っていると、彼はつつ……と私の背中に指を這わせて、私の身体を自分の元へぐいっと引き寄せた。

この突然の行動に少し驚いてしまい、身体がぶつかる寸前のところで、彼の両肩に手をつく私。
すると、私のそんな反応は想定の範囲内であったようで、彼はふわりと微笑むと、湯船に浸かってしまった私の髪を持ち上げながらその水滴を静かに拭う。

そしてのんびりした声で、私にゆったりと語りかけた。

「拙者、髪を切ろうと思うのだが。」

「え?切るって……」

「肩の辺りで。」

「え!?そんなバッサリいっちゃうの!?」

真剣な話、というものだから何かと思えば、彼は髪を切るという。
髪を切ることについて真剣に語り合うというのも何だかおかしな話だが、彼が切ろうとしている長さに驚き、私もつい真面目になってしまった。
しかしながら、何故また唐突に。
そう思い彼に尋ねてみると、彼はゆっくりと目を閉じて、額をそっと私の肩に預けた。

「人を斬っていた頃からずっと手を加えていなかった。返り血を浴びたこともあるし、血まみれの手で掴みかかられたこともある。血の匂いが抜けずに、夜中に目を覚ます事も多々あった。」

「…………」

「それでも切ってしまえば……、自分が殺めた人間の血が染み付いた髪を切ってしまえば、自分は己の犯した罪から逃げているように思えてしまって、切ることができなかった。」

「……剣、心」

「……いや、違う、な。本当は、そうやって己の罪を受け止める振りをしなければ、いつか自分は殺されてしまうのではないかと。自分が殺めた者たちの魂によって殺されてしまうのではないかと、そう思うと怖くて、切ることなどできなかった……」

絞り出すような声でそう話した剣心。
私の背に回された彼の掌はすっかり冷えていて、その指先には力が篭っている。

そんな彼を前にして、私は思わず彼の頭を包み込んだ。
目の前の彼がとても小さくて、弱弱しくて。

彼の絶対的な強さに、私たちはつい思い違いをしてしまうけれど。
本当は彼も一人の人間で、もしかすると、彼は人一倍弱い人間かもしれなくて。

「正義のために戦ったのは事実。しかしながら、自分の正義を貫くために、自分は刀を取ってしまった。これはやはり、正しい選択ではなかったと思うのでござる。」

「…………」

「これからの己の選択が、全て正しいとは限らない。しかしながらもう一度、あらゆるものに向き合っていきたいと思う。」

「……そう」

「それゆえに髪を切るというのは、いささか短絡ではござるか……」

「そんなことない!剣心の想いが、伝わってくるもの!」

少しだけ顔を上げた彼が自嘲的に笑うものだから、私もつい必死になって彼の肩を掴んでしまう。
そして、驚いてこちらを見る剣心に向かって思いの丈をぶつけると、一瞬ぽかんと呆けていた彼の顔がゆるゆると崩れ始めて、しまいには堪えきれないといったように噴き出した。

今まで真剣な話をしていたはずなのに、何故彼は笑い転げているのか。
状況が読めない私を放ってなおも笑い続ける剣心の表情には、先ほどまでの“重さ”は感じられない。
というよりかはむしろ、子どものように無邪気に、ケラケラ笑う大の男がそこにいる。

「私……何か的外れなことを言ったかしら。」

「いや、全く。薫殿はやはり、薫殿だなぁと思って。」

「なぁに、それ。何が言いたいのかさっぱり分からないわ。」

そう言って不貞腐れた私の頬をそっと包み込んだ剣心は、「薫殿はいつも拙者の気持ちを軽くしてくれる、という意味でござるよ」等と調子の良い事を言っている。
そんな彼に絆されて、僅かに緩みかける私の口元。
こんなつもりじゃないのに、とは思っていても、口元が言うことをきかない。

弱音を吐ききってすっかり元気になってしまった剣心は、わざと私の胸元に顔を近づけて、「薫殿から良い香りがするでござる」などとおどけて見せたり。
そんな彼の頭をぺちっと叩けば、何が嬉しいのかさっぱり分からないけれど、彼は再びへにゃんと緩い笑顔を見せる。
それでもそんな笑顔が可愛くて。
私の身体は、ぎゅうっと収縮して。
堪えきれずに彼の頭を包み込もうと手を伸ばすと、その手は彼に捕らわれて、代わりにくちびるが重なった。

むせ返るほどに匂い立つ金木犀の香りと、
私の肌を伝う、優しい掌と。

濡れた肌が触れ合うたびに、じんわりと熱い痺れが走った。



>>終

2011.01.11
移転前に書き始めたものなので、時期はずれですみません。