「今の季節に風鈴?」
薫がせっせと朝食の準備をしているまさにその時。
部屋の中に吊り下げられていた風鈴を見て、剣路が眉をしかめた。
「綺麗でしょ?その風鈴。」
「……夏まで待てばいいのに。」
「あ、聞いて聞いて。その風鈴ねー」
「母ちゃん。この鯖の煮付け、しょっぱい。」
どうせアイツが絡んでるんだろう?
薫の表情から彼女が考えていそうなことを何となくを読み取った剣路はわざと話を逸らしたのだが、摘み食いに対して「お行儀が悪い!」と薫に額を叩かれてそのままの勢いで畳にのめりこんだ。
畳の上で悶える剣路に上から突きつけられた一言。
「お父さんを起こしてきて頂戴。」
その時何故か、理由もなく腹が立った。
朝から薫がたくさんの品数を揃え、一生懸命食事の支度をしていた理由を、剣路は知っている。
父親である剣心が依頼された仕事を終えて、一週間ぶりにこの家に戻ってきたこと。
そして母親は今日という日を、それはそれは心待ちにしていたこと。
剣心が帰宅したのは昨夜遅く、自室に引きこもっていたから確かかどうかは分からないけれど、おそらく薫はずっと起きて彼を待っていたのだろう。
どう考えても彼女の表情には、隠し切れない疲れがにじみ出ていた。
父親と自ら関わっていく事は不本意ではあるが、母の命とあらば断ることは出来ない。
根本的に、母には弱いのだ。
いつも自分の近くには母が居て、ときどき父が居て。
父はいつも穏やかで物腰が柔らかかったが、そんな彼の雰囲気にはあまり素直に溶け込んでいくことが出来なかった。
「起きろ。」
枕元にしゃがみこみ、先ほど薫から受けた衝撃を倍以上にして、剣路は剣心の額を叩きながらそう言った。
別に、直接剣心に恨みがあるわけではない。
しかしながら色々な元を辿っていけば、そのうち剣心に行き着くのだ。
「…え。剣路?え?え?」
「起きろ。母さんが飯の用意出来たって。」
ぱかっと目を開けて、間抜けな顔をして、今なお状況を理解出来ていないらしい剣心はあたふた。
そんな様子が剣路の怒りをさらに助長させることは言わずもがなの真実で、そうこうしている間にも、剣路の怒りは静かに高みを目指していた。
「け、剣路。おは、おはよう、でござる。」
「もう『おはよう』の時間じゃねぇよ。阿呆親父。」
「薫ど……、母さんはいつ起きて…?」
「俺が五時に起きたときには、もう飯の支度始めてたけど。」
明後日の方向を向きながら、ぶっきらぼうに剣路がそう言った瞬間、剣心の顔がぴきっと硬直する。
そしてがしがしと頭を掻きながら、はあーっと一つ大きな溜息。
だらりと緩んだ胸元をあわせ直して剣心が布団から出ようとした瞬間、入り口付近で凭れていた剣路と目があった。
「……一週間も家空けてんじゃねぇよ。」
「…………」
「親父がそんな風だから……、母さん、こんな季節に風鈴なんか吊るしてんだろ。」
「風鈴?」
「とにかく!とっくに飯出来てんだから、早く来いよ!母さんが拗ねるぞ。」
「おろ。」
そう言い捨てて、剣路は剣心の顔も見ずに部屋を飛び出す。
相手は親父なのに、どうしてこんなに緊張するんだ。
居間へと向かう廊下を歩きながら、高ぶった心臓を何とか平常に戻そうとする。
やっぱり、嫌いだ。
しかしながらおかしなことに、嫌いではあるのだが嫌ではない。
自分でもよく分からない感情に、余計に苛々する。
――嫌いだけれど、嫌じゃない。
それはやはりこの空間が、自分の理想であるからなのかもしれない。
>>終
2008/02/29
母に優しい男前息子。ヒムラJr.は基本的に薫殿の味方だったら良いな。