「だ・か・ら!剣心のはダメだって言ってるじゃない!しつこいわね!これでもくらえー!」
そう言って、持っていた竹刀を突きの体勢に構えた薫を見た剣心はぎょっとして、慌てて薫の腰を捕まえた。
しかしながら薫も相当頭に来ているらしい。
薫を止める剣心の草履は、じりじりと音を立てながら地面を滑っている。
「ちょ!ちょい、ちょい薫殿!そんな殺生な!」
「離して頂戴、剣心!もう頭にきた!あんたなんか今晩のおかずにしてやるんだからー!」
「そりゃ無理でござる。」
進行方向とは逆の方向へ剣心が引っ張ってもなんのその。
今にも爆発しそうな怒りも手伝ってか、薫の勢いは止まらない。
「覚悟なさい、この泥棒猫ー!」
「いやいや薫殿、相手は犬でござる。」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
そう。
相手は犬。
しかしながらこの犬が只者ではないのだ。
「この節操なしめー!」
「こら、薫殿。」
薫が竹刀を振りかざして先ほどから威嚇しているにもかかわらず、この犬ときたらそんな事は気にも留めていないようで。
剣心が一生懸命宥めている薫の足元をまるで挑発するかのように、ふくよかな身体全体を使ってのっそりと歩き回っている。
さて。
一見可愛らしいこの犬がどうして薫の怒りを買ってしまったのかと言うと・・・
「もう弥彦も左之助も被害にあってるのよ。次は絶対に剣心を狙ってるわ、こいつ。」
「かーおーるーどーのー。理由は何にせよ、犬に竹刀を向けるのはダメでござる。ほら、もうすぐ稽古の時間でござろう?」
「じゃあ先にこいつを捨ててくる!だって…だってそうじゃないと、剣心の唇が奪われるもの!」
唇が奪われるって・・・
薫の口から飛び出した一言に一瞬脱力した剣心であったが、一呼吸置いてから気を取り直し、
眉間に皺を寄せながら何とか薫を説得する手立てはないものかと頭を悩ませていた。
そう。
薫が怒っている理由は、これなのである。
昼飯時にふらりと庭先に現れたこの犬。
見たところ飼い主もいないようであるし、かわいそうだと言って、薫が昼飯をわけてやったのだ。
始めのうちは薫にもなつきぱたぱたとしっぽを振っていたのだが、左之助が現われた瞬間薫の事などそっちのけで、この犬は左之助に勢い良く飛び掛った。
そして驚いてバランスを崩した左之助をそのまま押し倒すと、左之助の唇を思いっきり嘗め回したのだった。
そんな破廉恥(?)な一連の出来事を目の当たりにしてしまった薫はわなわなと震えだし、今に至る。
薫が必死に剣心の唇を守る間に不幸にも弥彦が餌食となり、意識を失うまで嘗め回された弥彦はそのまま左之助の隣に崩れ落ちていた。
「家に帰りなさい!しっ!しっ!」
「ほら。薫殿の突きが来ない内に、大人しく家に帰るでござるよー。」
「剣心あなた、どっちの味方なの!?」
「おろ。ほら、薫殿が暴れぬ内に・・・」
「剣心!」
ああしまった。
今の薫殿は、何を言っても怒るようでござる。
そんな剣心の苦労を知ってか知らずか、未だなお例の犬は薫の足元をぐるぐると回り歩いていて。
実にのっそりとした動きではあるが、薫の蹴りをひょいひょいとかわしてみせる、実にやっかいな犬である。
「というか元はといえば、薫殿が餌をやるからいついてしまったのでは?」
「……う゛」
「野良にむやみやたらと餌をやってはいかんでござるよ。小さい頃、父上にも言われたでござろ?」
「ど、どうして知ってるの!?」
「……やっぱり。」
きっと小さい頃からあんまり変わってないんだろうなあ……
そんな考えがふと頭の中をよぎり、頬が弛む。
きっと薫殿の事だ。
今までに数え切れぬほど、腹を空かしていたり家を失ってしまった野良を家に招きこんだに違いない。
だってほら。
人間の男でも何の警戒もなく家に住まわすほどだし。
あ、拙者のほかにもね。色々とね。あの不届き者とか、色々。
………………
つくづく、よく今まで無事だったな。と思うでござる。
でもそれが薫殿の良い所と言ってしまえばそれまでなのだが。
「この犬もそのうち満足して帰るでござろう。さて、昼餉の続きを。ほら、薫殿も。」
「え?け、剣心!?ちょ、ちょっと!」
自分の意に反して剣心に持ち上げられてしまった薫は恥ずかしさも重なってか、足をバタバタと忙しなく動かす。
が、そんな反抗も彼の前ではまるで無意味で、剣心はというと軽々と薫を抱えなおして、また部屋の中へと戻ってしまった。
そんな二人をじっと見送っていた例の犬はその後どうなったのか。
目を覚ましたら顔が更にベトベトだった弥彦と、顔だけでなく胸元までベトベトだった左之助。
大きな謎を二人に残して、彼(犬)はどこかへと消え去っていた。
>>終
何がディープキスって、そりゃあ犬と弥彦と左之助が…(違)
2007.8.8