新年の挨拶。
それは波乱に満ちた、一年の幕開けだった。
大晦日から翌一日にかけて神谷道場では大宴会が行われた。
毎年恒例の宴会。
気の許しあえる者同士であるがために、大いに盛り上がる。
そして、二日。
大宴会の余韻からすっかり現実に引き戻された剣心と薫は、ただもうひたすらに道場の掃除をする。
はっきり言って、悲惨な状態である練習場。
三が日が明けた4日からは早くも稽古が始まるために、何としてでも片付けてしまわなければならない。
そして三日。
薫は朝早くに家を出て、いつも世話になっている道場へ新年の挨拶に回る。
新年の挨拶を文で済ますのはあまり好きではないから…という理由からだが、薫らしいといえば薫らしい。
しかしながら「付いて行く」という申し出を「お正月はまだゆっくり出来ていないから、せめて今日だけでも休んで頂戴。」と微笑みながらかわされた剣心にとっては、内心穏やかでない。
ゆっくり出来ていないのは、薫も同じ。
それなのに朝から何の疲れも見せずに行ってしまった薫の背中を思い出しては、やはり付いて行くべきであったと剣心の心は痛む。
ただ単に挨拶回りとは言え、全ての道場が同じ方向にあるわけではないのだ。
それこそ本当に一日を急ぎ足で駆け回らないと、今日中に帰って来る事は出来ないだろう。
今終わったばかりの夕飯の下ごしらえを見回して、剣心は重い溜息を吐いた。
さて、何をしようか。
買い物に行こうにも、今日はまだ三日。
どの店も開いていない。
掃除をしようかとも思ったのだけれど、そういえばもう掃除をする所なんて無かったのだと思い出して苦笑いをする。
この町がこんなにも静かなのは、きっと正月だからという理由だけではない。
自分の隣に薫が居ないから。
自分の目の届く範囲に彼女の姿が無いものだから、こんなにも寂しく感じてしまうのだろう。
……付いて行くと言ったのは、道中が心配だったからというだけの理由では無かったのに。
鈍感なのか、底抜けのお人好しなのか。
今更ながら、薫はやはり手強い相手のようだ。
することもなくなってしまった上に夕飯の支度を始めるにはまだ早すぎて。
仕方無く畳の上にごろりと横たわった剣心は、ぼんやりと思考を探る。
きっと今日も薫はとっぷり疲れて帰ってくるに違いない。
明日も稽古であるから……、そうなると早めに床についた方が良いわけで。
……ひー、ふー、みー、………
寝転がったまま指折り何かを数えていた剣心であったが、両手で足りなくなってしまった途端に、悲しそうな溜息を吐いて数えるのをやめてしまった。
おそらく何か思うことがあるのだろう。
煩悩を払うかのようにがしがしと頭を掻いた剣心は、ぼさぼさの頭を振り乱してそのまま畳に沈む。
髪も着物もくしゃくしゃで、しかしながらそんなことは構わず、剣心は横たえたまま動かなくなってしまった。
* * *
「剣心!けーんしん!」
「……、ん…薫殿?」
ゆさゆさと身体を揺すられてようやく目を覚ました剣心はしばらくの間は寝ぼけてぼんやりしていたものの、辺りの様子が異なることに気づいた瞬間、飛ぶように起き上がった。
「ただいま」と微笑む薫を前にして、剣心は顔面蒼白。
いつの間にか辺りは真っ暗で、今帰ってきたらしい薫の頬は寒さの所為か少し赤くなっている。
「もう。お昼寝するなら布団で寝れば良いのに。風邪ひくじゃない。」
「か…薫殿…、いつ…帰って」
「ん?ちょうど今よ。遅くなってごめんなさい。」
そう言いながら上着やら襟巻きやらを外していく薫を見て、剣心の頭からは血の気が引いていく。
彼女が帰ってくる前には、部屋を暖めておこうと思っていたのに。
彼女が帰ってくる頃には、夕飯を準備しておこうと思っていたのに。
今日一日彼女はこの生活を支えるために、この寒い中朝早くから今まで歩き回っていたというのに。
それなのに自分は半日眠りこけているだなんて……。
一体彼女にどの顔を合わせれば良い?
「薫殿…、申し訳ないでござる。」
「な、何いきなり!どうして謝るの?」
「情けなさ過ぎて、薫殿に合わせる顔がないでござる。本当に申し訳ない。」
「ちょ、ちょっとやめてよ!とりあえず、顔上げて頂戴。私何も気にしてないし、怒ってもいないし…ねえ、剣心ってば。」
畳に額をのめりこませてただもうひたすらに謝罪し続ける剣心と、そんな彼の肩を掴んで必死に起き上がらせようとする薫。
しかしながら薫に負けず劣らず剣心も頑固で、石のように固まってピクリとも動かない剣心を前にして薫に疲れが見え始める。
細いとはいえ、相手は男。
力で適うはずが無い。
しかしこのまま彼を放っておけば、おそらく一週間でも二週間でも、彼はこのままの体勢で過ごすだろう。
……力で適わなければ、頭を使え。
しばらく経った後無理矢理剣心を起き上がらせることを諦めた薫は剣心の前に正座をして、依然顔を上げようとしない剣心を見下ろして小さく溜息をついた。
「剣心。いつまでもそうしてるつもりなら、私本当に怒るからね。」
薫がそう言った瞬間剣心の身体はピクリと揺れて、指先が僅かに折れ曲がる。
おそらく色々とパターンを考えているのだろう。
明らかに動揺している剣心を見て薫は思わず噴出しそうになるけれど、もう少しの辛抱だと我慢して、再び口を開いた。
「顔上げてくれたら怒らない。」
「……むしろ責めてほしいでござる。」
「……あなたそういう趣味なの?」
「そうじゃなくて。」
体勢は先ほどと何ら変わってはいないが、すかさず突っ込んでくる辺りを考えると、どうやら先ほどよりかは少し元気になったらしい。
あともう少し。
小さく微笑んだ薫が剣心の甲にそっと手を重ね置くと、突然のことに驚いたのか、剣心の身体が異常に跳ね上がる。
こんなに冷たい手をしているくせに、剣心も相当な頑固者ね。
おそらく剣心を動かすことが出来るのは今だろう。
そう踏んだ薫は、剣心の耳元にくちびるを寄せて囁いた。
「良いよ。じゃあ、後でね。」
剣心にだけ聞こえる距離で、彼の鼓膜を直接震わせる距離で。
小さく、しかしながら確実に囁かれた言葉は、彼に相当な打撃を与えたらしい。
それまで絶対に動こうとしなかった剣心が、間抜けと言っても過言ではないほどの呆け面でゆっくりと顔を上げる。
そして未だ動揺を隠しきれていない目で、しかしながら縋るように、「ほんとに…?」と声帯を震わせた。
「嘘よ、馬鹿。」
「………………」
剣心に土下座をやめさせるためとはいえ、さすがに恥ずかしくなったらしい。
真っ赤な顔をした薫に冷静に否定された剣心は、今度は違う理由でぐったりと項垂れる。
どんよりとした空気を撒き散らす剣心を前に、薫も相当困った様子。
そして薫はとうとうこの空気に耐え切れなくなったのか、突然剣心の両ほっぺたをつねってそのまま左右にぐにっと引き伸ばした。
「美味しいご飯作ってくれたら、考えてあげても良いけど。」
そう言って照れながら微笑む薫に、剣心の意識は根こそぎ奪われて。
こんな表情で、こんなことを言われてしまったら、もう男のプライドだとか年上の体裁だとかはどうでも良くて。
それから二人がどうなったのかは誰も知らないけれど、翌日道場へやってきた弥彦によると、歩きすぎて腰を痛めた薫の代わりに剣心が彼の稽古をつけたらしい。
「師範のくせに体力不足かよ。」と呆れていた弥彦であったが、さて真相は如何に?
>>終
2008.01.10
御題提供:緋乃様
少し恋愛に慣れてきた薫殿には、女と少女を上手に使い分けて緋村氏を弄んでいただきたいです。(おろー)