深く息を吸い込んだ。
喉元を流れ落ちる汗と、目下に迫る町の景色。
ふと見上げた空は、こんなにも青かっただろうかと不思議な気持ちになる。
暑さでゆらゆら揺れる視界と、逸る気持ち。
逢いたい気持ちが加速して、心臓が壊れるほどの速さで坂道を駆け下りた。
蝉の声がこだまする木々の下、陰を見つけては暑さを凌ぐ。
折り重なるように茂る木々は適度な涼の空間を作り出し、ギラギラと眩しい太陽もそれほどまでに深刻ではない。
果てなく続く白壁は我が家のものではあるけれども、今この時に限ってはこの広さが少々煩わしくもあり。
一回の動きでは拭いきれない額の汗を何度か拭い直した頃、ようやっと白壁の角を曲がる。
その瞬間、頭上を覆っていた木々の日よけが途切れて、直接的な日差しと塊のような熱気が自分に向ってきたために薫の視界は真っ白になった。
「薫殿。」
その一声で、失いかけた気を慌てて引っ掴む。
色を取り戻し始めた視界の向こうでは自分が縫った紺色の着物を着た剣心が、庭先に打ち水をしていた。
時間的にはもうすぐ夕暮れ時とはいえ、この季節日は長い。
現に空だって、まだこんなに青いのだ。
それなのに、こんな時間に水をまいても、すぐに蒸発してしまうのではないか?
「ただいま!」
「おかえり。暑かったでござろう?昼はちゃんと食べた?」
「ううん、帰ってくる途中に適当な場所がなくて。結局まっすぐ帰ってきちゃった。」
「そうでござるか。では早目の夕餉にしよう。風呂がもうすぐ沸くから、薫殿は先に風呂に入ると良いでござるよ。」
本当は剣心に早く逢いたかったからなのだけれど。
長い間逢えなかったから、その反動で言えるかな…なんて思ったりもしたのだけれど、やはり現実はうまくはいかないらしい。
帰り道、黙々と山道を歩きながら練った台詞と展開が、どんどん飛ばされていく。
本当なら1週間ぶりの劇的な再開ということで、高ぶった感情に任せて家の前で彼に飛びつくなどということもできたはずなのだが。
顔を合わせた瞬間に、今更ながら何だか恥ずかしさがこみ上げてしまって、予想外の展開になってしまったというわけだ。
つまりは、どことなくよそよそしい。
「どうでござった?感触は。」
「まぁ、難しいところね。やっぱりうちは小さな道場だから。より好み出来ない立場だっていうのはわかってるんだけど…、でも何でもかんでも引き受けるっていうのは……。」
「そうでござるなぁ。まあでも、着実に門下生は増えていることだし、今のところ不都合が生じているわけでもない。焦ることはないでござるよ。」
食卓を挟んで向かいで笑う剣心を見ていると、ああ家に帰って来たのだなと実感がわく。
つい昨日まで、張りつめた雰囲気の中に身を置いていたのだ。
そんな雰囲気から解放されて、この場は暖かくて、今この瞬間に一気に疲れが雪崩れてきた。
好きだ。
ああ、やっぱり。
やっぱり好きなのだ。彼のことが。
こんなとき、こんなふとしたときに、思い知らされる。
疲れて家に帰ってきて、誰かがいて、お風呂が沸かされていて、美味しい御飯が用意されていて、一緒に御飯を食べる人が居て、その人はとても優しい顔をしていて。
どこが好きなのか、どう好きなのか。
説明できないけれど、全身で愛している。
窮屈そうに、今にもはじけそうに、私の中でもがいている。
この気持ちが、この想いが、それとなく彼に伝わっていけば良いのに。
「そういえば、今日はずいぶん早くに水撒きしたのね。」
「いや、それは……」
火照りそうになる顔を隠すためにそれとなく話を振っただけなのに、剣心はというとお箸を置いて気まずい顔。
そんな彼につられて私もお箸を置いて彼の顔を覗き込むと、彼はさらに表情を隠しながらこめかみを押さえている。
それは、その。たいしたことではなくて。
籠るような彼の言葉に、私は返事をすべきか否か。
とりあえず剣心が身動きできなくなっているようなので再びお箸を手に取ると、その瞬間に彼が決心したように顔をあげる。
そして心なしか耳を真っ赤にして、私の目をじっと見つめながら言った。
「薫殿が…!帰ってくるのが、待て、なくて、つい……」
彼の必死の告白に、二人の間の空気が止まる。
里芋の煮っ転がしを放り込もうとした口のまま呆気にとられている私と、段々と声を小さくさせながら縮こまる彼。
しまった。完全にやられてしまった。
まさか今こう来るとは、考えもしなかった。
ゆえにひどく中途半端な体勢で、上手い言葉も見つからない。
茶化すべき?この雰囲気に乗っていくべき?
真っ白になった頭では、それすらも分からない。
「う、うん。」
とりあえずしてみた返事は、あまり意味のないもので。
それでも嬉しさだけは、いっぱい詰まっているつもり。
久しぶりに会えたから、変に茶化したり、素直に受け入れたり出来なくて。
とりあえずは、今夜を彼に委ねるのが精一杯。
ふとしたときに思い知らされる彼への気持ちが、それとなく、なんとなく、彼に伝わっていけばいいのに。
なんて、破裂しそうになる想いを伝える勇気もないくせに。
火が出そうなくらい熱くなっているこの頬に触れて、そして気持ちを読み取って。
貴方を全身で、愛している。
>>終
2008/08/24
まだまだ暑いですが、熱中症にはご注意を!