彼と出会い、彼の恋人になり、早3年。
季節は初夏を迎え、私たちはもうすぐ家族になろうとしていた。
彼は依然として私にすべてを曝け出すようなことはしなかったけれど、それでもそれは彼の距離なのだと、そういう風に感じていた。
私が彼の全てを理解できていただなんて、そのような図々しいことは決して思っていないつもりだったけれど。
それでも、彼の柔らかい髪に触れたり、彼の温かい腕に包まれたり、彼の背中にそっともたれかかる権利は、私にあると思っていた。
それはきっと永遠のように。
私の手の中に、変わらずあるものだと思っていたのだ。
ゼ ロ の 焦 点
「それでは薫殿、戸締りをしっかり。」
「うん。剣心も、気をつけてね。」
まだ夜も明けきらぬ時間帯。
気を引き締めるかのように玄関先で着物の皺を伸ばした剣心は、薫から逆刃刀を受け取ると、それを静かに腰元にさした。
絶対に危ないことはしないで。
すぐに帰ってきて。
行かないで。
さきほどから頭に浮かぶのはそのようなことばかりなのだが、それらの言葉を口にしたところで、彼を困らせるのは明白で。
嫌われたくない、面倒な女だと思われたくないという一心から、薫はずっと言葉を飲み込むばかり。
それでもこれから危険な地に向かう彼に何か一言をと思い、ようやっと絞り出した言葉が先ほどの定型句だった。
「薫殿も。風邪などひかぬよう、気をつけて。」
そして彼から返ってきた言葉もまた形式通りのものであったが、彼のそういった性格は十分すぎるほどに分かっているつもりであったので、その返事については特に不満はない。
そのように表面上強がってはいたけれど、幾分かの寂しさがあったのも事実であった。
* * *
そんなこんなで、剣心が家を空けてから2日。
まだ2日であるというのに、薫の心はひどく空っぽであった。
今回剣心は警察の要請を受けて、少なくとも片道3日はかかるであろう北の地へ向かっている。
片道3日なのだから、彼はまだ目的の地へも到着していないのだ。
ましてやお付きの人は警察とは言え一般人なのだから、もっと長い日数がかかるのかもしれない。
そんな風に往復の日数と向こうでの滞在予定日数を指折りで数えていたら、とんでもなく長い期間が現実に迫ってきて、薫は頭の中に浮かんだ嫌な数字を振り払い、畳の上にごろりと横になった。
何をしたらいいのだろう。
いや、するべきことはたくさんあるのだけれど、何一つとしてやる気が起らない。
剣心といるときはどんな些細なことでさえも、楽しくて嬉しくて躍動感に溢れていたのに。
ぼんやりとした頭で畳に放り投げられていた布を手繰り寄せ、だるい身体を起こして手元を動かす。
右手の指先を細かく上下させる度に波打つ真っ白なその布は、数ヶ月後に迫った大切な日に自分が着る予定の晴れ着であった。
しあわせなはずなのに、どうして私は素直に浸れないのだろう。
どうしてどこか、沈んでしまっているのだろう。
答えは見いだせないと分かっているのに、果てなく繰り返される自問自答。
彼は本当に私を好き?
なんて、いくら私が考えても、分かるはずのない問題だった。
この広い家に一人きりというのは、おかしな話ではあるがどうも慣れない。
元は自分の家なのに。
そう思うけれど、もう一人で住んでいた頃の感覚などとうの昔に忘れてしまった。
これほどまでに孤独を感じるのは、いったい何時振りだろうか。
弥彦を呼んでご飯だけでも一緒に食べようかとも思ったのだが、あいにく彼もまた遠くの町へ出稽古に出ていたことを思い出して。
ならば燕を呼ぼうかとも思ったのだが、残念ながら彼女もまた現在実家に戻っているらしい。
こうして一人になって初めて。
私は彼にずいぶんと支えてもらっていたのだと、彼にずいぶんと依存していたのだということを思い知る。
彼がいないと何もできないわけじゃないけれど。
それでも彼は私の一部のような存在で、そんな彼がいなくなってしまったということは、私にとってはどうにも耐えがたい事実だった。
* * *
その夜。
身体は疲れているはずなのに、やはり眠れずに寝返りばかりを打っていると、遠く離れた場所で微かに不自然な物音が聞こえた。
始めは気のせいかとも思っていたのだが、息を押さえてその微かな音に全神経を集中させてみると、やはりその音は続いている。
戸を叩くような、木を削るような、とにかくこの時間帯に似つかわしくない音であるのは確かなようだ。
静かな空間の中で、音を見失わないように注意を払いながら、だらけた寝間着を直して羽織に腕を通す。
そして枕元に置いてある竹刀を手に、そっと自室の障子に隙間を作った。
古い廊下を、音を立てぬように歩くのは至難の技で。
剣心だったなら難なくこなしてしまうのだろうなぁと思うと、勝手に笑みがこぼれる。
そこで気がついたのだが、緊迫した状況であっても、それなりに余裕はあるらしい。
強がって冷静なふりをしていた身体がほぐれ、気持ちが落ち着いた瞬間だった。
眠れなかったせいか、すっかり闇夜に慣れた目。
その目をさらに凝らすと、僅かながら渡り廊下の雨戸が揺れているのが分かる。
雨風?とは思ったが、揺れているのは一枚だけだ。
ということは、何かによってこの一枚が動かされているということで。
そしてそれが動物の類でないと判断することは、気配を読むだけで容易いものであった。
このような時間に一体誰なのか。
とにもかくにも、このような場所から入り込もうとするところからしてどうにも怪しい。
よりによって剣心が居ないときに。
依然として不自然な音が鳴りやまないことを確認して、気配を沈めた薫はそっと竹刀を握り直す。
そして大きくそれを引き、恐らくこの雨戸一枚を隔てて相手が立っているであろう場所をめがけて、その箇所を突いた。
ガンッ―――!
緊張のせいで力加減が上手くいかずに、思ったよりもひどく突き立ててしまった。
竹刀が戸を突く音のほかにも、何やら不穏な音が付随したのは気のせいではないだろう。
それでも貫通を避けただけ、幸いとしたものである。
さて。
竹刀を構えたまま、雨戸越しに外の様子を窺ってみる。
が、物音もしなければ、何かの気配も感じられない。
気を張っていた割には、あっさりしたものだった。
しかし、どうやら難は去ったようだ。
構えていた竹刀を下して戸締りをすると、何とも言えぬ溜息が零れおちて、どっと疲れが押し寄せる。
すると身体中の力が抜け落ち、薫は崩れるようにしてその場へ座り込んだ。
そして、初めて気がついた。
身体じゅうが、震えている。
背中にはじんわりと汗が染みて、指先は冷たかった。
瞬間、何故かどうしようもなく寂しさが込み上げてきて、らしくもなく涙が零れおちる。
自分でも分からない。
なぜ、涙が零れ落ちたのか。
しかし一粒流れてしまえば後は単純で、堰を切ったように溢れだす。
震える肩を抱いて、必死に涙を止めようとしている自分が惨めだった。
私はいつからこんなに弱くなったのだろう。
寂しさで押しつぶされそうになるなんて、初めてだ。
離れているときほど思い知らされるだなんて、卑怯以外の何物でもない。
薫は頭の中に残る剣心の柔らかな表情を恨んだ。
* * *
一夜明け。
買物は朝の涼しい時間帯に済ましてしまおうと、町へ出た。
料理は自分でしなければいけないので、調理が難しい食材は買えない。
その上、自分で作るとなると失敗してしまう可能性が大いにあるため、結局は無難な野菜を三種類ほど揃えただけになった。
「薫ちゃん、一人で買い物?珍しいね。」
そう言って声を掛けてくれたのは、ここの奥さんだ。
うちの経済難に気を掛けて、いつもまけてくれる。
その優しさが嬉しくもあり、申し訳なくもあるのだが、奥さんはいつも「小さい時から知っているから」と笑ってくれるのだ。
「ええ、今剣心が家を空けているので。一人なんです。」
そう言って奥さんから野菜の包みを受け取ろうと手を伸ばしたそのとき、奥さんから返ってきた言葉に、思考が凍りついた。
「…ああ!そういえば、宮前さんのお嬢さんの警護をなさってるんだってね。」
……は?
「いやー、でも大変だねぇ。ほら、家に男の人がいないと物騒でしょう。」
「え、いや……」
「薫ちゃん美人なんだから、気をつけないと。ちゃんと戸締りするんだよ?」
「あ、はい……。ありがとうございます。」
宮前?
どういうこと?
宮前といえば、この辺りの人ならば誰もが知っている。
隣町に在る、とても大きな西洋風のお屋敷のことだ。
なんでもそこの主人は、船の事業で大きな成功を収めたとかで相当なお金持ちらしい。
でも何故そこに剣心が?
……違う。
剣心は片道3日はかかる、北の地に向かったのだ。
それなのに、こんなにすぐ近くにいるはずがない。
私に嘘を、つくはずがない。
胃が痛い。
薫は足早になりながら、逃げ込むように帰途についた。
そんなはずはない。
彼が嘘をつくはずがない。
嘘をついて、私に、そんなこと、あるわけがない。
強張った表情で家に戻り、買ってきたものを無造作に取り出す。
そして大根に手荒く包丁を入れると、その反動で大根の半分が床に転げ落ちた。
土の上をコロコロと転がっていく大根の断面に、茶色い砂が塗されていく。
もはやそれを、拾う気にもなれなかった。
剣心が、すぐ近くにいる。
どうして?
本当に?
思いもよらぬ情報を耳にしてからというもの、頭の中から言葉が離れない。
何をする気にもなれず、食欲も喉の渇きさえも感じられなかった。
奥さんの勘違いかもしれない。
何度も強くそう念じてみたが、心の中の疑惑は晴れなかった。
勘違いの確率は、確かにあるだろう。
しかし、勘違いではないという確率も、確かにあったのだ。
確かめよう。
そう決意するまでに、時間は掛からなかった。
* * *
誰でも知っている、大きな西洋風のお屋敷……とは言えど、こちらの方面にはあまり知り合いがおらず、足を運んだことも数えるほどしかなかった。
それに……、もう少し、涼しくなってからの方が良かったかもしれない。
掌で顔に影を落としながらギラギラと照りつける太陽を一睨みするものの、あまりの暑さに気が滅入りそうである。
あいまいな記憶を頼りに小道に入れば必ずというほど迷ってしまい、しかしながら大通りを歩くのは躊躇われた。
というのも、この辺りの人々は自分とはまるで生活水準が異なり、装いも雰囲気も何もかもが、自分とはかけ離れたものであるためで。
着物の柄も地味で、いかにも貧乏そうな自分は、好奇の的であるようにも感じられたのだった。
さて。
勢いだけで飛び出してきたは良かったが、これから一体どうしたものか。
まずお屋敷にもたどり着けていないし、お屋敷にたどり着けたとして、果たして会わせてもらえるのだろうか。
いやそうではなくて、私が確かめるつもりだったのは、本当に剣心がそこにいるのかどうかということで……。
ああ、もう!どうすれば良いのか、ますます分からなくなってきたじゃないの!
とりあえずは、このままでは埒があかない。
お屋敷までの道を聞いてみよう。
この辺りの地理にはとんと疎い。
とりあえず、優しそうな人を……
そう思い、辺りを見回したそのとき。
――!
今
視界の隅に、何かが写りこんだ。
いつも見なれているそれではないけれど、確かに私はそれを知っている。
ドクドクと、激しい音を立てる心臓。
浅い呼吸を何度か繰り返し、恐る恐る視線を動かす。
横に滑らせた視線の先には、胸に刺さる夕陽色。
風に揺れる柔らかいそれは、薫がとても好きな風景。
その特徴的な髪の色は、薫を揺さぶるには十分すぎた。
剣、心……?
心の中で彼を呼んだ。
声にしたくても、喉の奥がひどく痛んで声にならなかった。
彼の隣には、凝った絵柄の着物を着こなす、とてもとても綺麗な人。
上品な日傘に顔を隠して、しっとりと微笑んでいる。
知らなかった。
剣心は、ずっとあの人の傍にいたのだ。
私がずっと玄関の前で佇んでいた時も、震えて眠れなかった昨日の夜も。
私はなんて、滑稽なのだろう。
彼は実際、こんなに近くにいた。
そのとき。
ずっとあちらを向いていた剣心が、弾かれたように振り返る。
そして迷うことなく、薫に目をとめた。
目を大きく開いて驚いているその顔は、涙で視界の滲んだ薫にはもう見えない。
「薫殿!」
剣心の視線を振り切るように駆けだした薫の背中に、剣心の声が虚しく響いた。
* * *
私は馬鹿だ。
私は馬鹿だ。
私は馬鹿だ。
知らなければ良かった。
買い物なんて、行かなければ良かった。
知らなければ、こんな気持ちになることもなかった。
私はなんて馬鹿なんだろう。
「薫殿!」
そう声をかけられるのと同時に、薫の手首は物凄い力で掴み上げられた。
剣心もよほど焦っていたのだろう。
力加減も気遣いも、一切ない。
「な、に……」
「すまない。ちゃんと、ちゃんと話すつもりだった。」
「何を……、話すのよ……っ。あの人のところに、帰りなさいよ……っ!」
思い切り振りきるつもりだった腕は、思ったよりも強く掴まれていて。
ゆえに上手く払いきれないどころか、逆に彼の腕の中に引き込まれてしまった。
「薫殿、すまない。こんな形で知らせてしまって、本当にすまなかった。こんなことになって、すぐに帰るつもりだったのに……。本当にすまない。」
縋りたくないのに。
彼に対して、腹が立っているはずなのに。
それなのに、どうして嬉しいのだろう。
彼に抱きしめられて、彼のぬくもりに包まれて。
どうして私は、こんなにも弱くなってしまったのだろう。
彼の着物を握りしめて、その肩に顔をうずめた。
その瞬間に一段と強く身体を捉えられて、彼の唇が私のうなじに触れる。
「寂しかった……」
そのとき自然と零れた言葉は、何よりも正直な本音だった。
* * *
「……戻らなくても大丈夫なの?」
「大丈夫でござるよ。元々今日までの約束であったし。」
私と一緒に家へ帰ってきてしまった剣心は、呑気にそう言って夕餉の支度にとりかかってしまった。
そんなにあっさりと戻ってこられると、逆にこちらが心配になってしまう。
剣心が帰ってきてしまったことを、本当に他の人たちは知っているのだろうか。
剣心が無断で帰ってきてしまうような人ではないと分かっているけれど、でも……。
「剣し……」
「さて、下ごしらえはできたでござる。」
「え?ちょ、ちょっと!」
私が声をかけようとしたことに気づいているくせに、そんなことには一切触れずに、今度は私の手を掴み廊下を引きずっていく。
先ほどのように容赦ない力で掴まれることはないが、彼が本気で私を逃がすまいと思ったら、彼の手を振りほどくことなど不可能で。
結局私は彼の意のままに、自分の部屋へと引きずり込まれてしまった。
しかしながら、こんな彼は珍しい。
なんと強引な。と呆気にとられていると、それまでの横柄さとは打って変わって、部屋に入るなりきっちりと正座をしだした。
いきなりそんな風に畏まられてますます訳が分からないが、とりあえずは彼に従い私も正座をする。
「……剣心?」
「薫殿の一生を頂戴する約束をしておきながら、救いようがないでござる。このようなことになってしまって本当に申し訳なかった。」
「……え!?あ…あの、良いの!大丈夫なの!ほら、何か理由があったんでしょう?」
一体何事かと思いきや、どうやら彼はずっとさきほどのことが気にかかっていたらしい。
頭を下げて詫びる剣心に、両手を振って否定する。
が、それでも頑として動かない彼は相当反省しているらしく、そんな彼を見ていると逆にこちらが心苦しくなってきた。
人付き合いは上手な彼だけれど、こういうことに関しては下手なのだ。
つまり、こういうことに関しては嘘がつけない。
そのようなことはずっと前から分かっているし、疑ってもいなかった。
だから本当は分かっているのだ。
あの人との間には、何もなかったということを。
「北の地へ行ってほしい。と要請があったのは、本当のことでござる。拙者はあの日、薫殿に見送られて家を出るまでそう思っていた。」
「うん。」
「もちろん、受けた仕事と内容が異なっていて、しかも……あのような内容であったからすぐに断った。それでもなかなか返してもらえずに、結局こんな形で薫殿に知らせることになってしまった。」
「うん。分かってる。」
思い返せば、今までもこういった展開はいくつもあった。
彼を一目見て気に入った女の子たちは、何とかして彼を傍に置きたがった。
中には本当に警護が必要であった人たちもいたけれど、それ以上に自作自演のお騒がせ事件も多々あったのだ。
彼が警護に出る度に喧嘩をしてしまうこともしばしばあったけれど、そういったお騒がせをいつの間にか笑い話に出来るようになっていった。
それはきっと、二人の間に揺らぐことのない何かが生まれたからだ。
「薫殿。」
「っ……、ちょっと!もうすぐご飯でしょう?悪さしないの。」
そう言って、私に貼り付いてきた彼の額を軽く叩くけれど、本当は嫌じゃない。
それでも彼を素直に受け入れるのは、飢えているようで気が引けた。
しかしながらきっと、そんな私の心の内もお見通しなのだろう。
彼は自分の欲を貫き通す振りをして、やや強めの力で私を組み敷いた。
離れていた夜を埋めるような、口付けが心地良い。
何度となく角度を変えて押し当てられるその感触は、いつか夢で見たような感覚さえした。
崩れた帯と、乱れた裾と。
なめらかな肌の感触と、私を包み込む体温と。
彼でなければ心地良くないし、彼でなければ満たされない。
今までの不安も戸惑いも、この一瞬で全てが消し去ってしまうように思えた。
二人の距離が、零になる。
閉じていた目を開けた瞬間、彼は私を貫いた。
>>>>終
2009/07/07
81000番、カナリア様にいただいたリクエストです。
許すまじ!剣心浮気疑惑。