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春 の 夜 の 夢
暗闇の中に、ぽつりぽつりと浮かぶ淡い光。
夜であるというのに、この街は驚くほどにに眩い。
しかしながらこの煌びやかな灯りとは対照的に、街全体はとても静かだった。
「それでは私はこの奥の間へ向かう。護衛ご苦労であった。」
「いえ。」
「今日の話し合いは少し時間がかかりそうだ。席を用意しておいたから、そこで待機していてくれ。」
「分かりました。」
そう言って側近二人を連れた桂が奥の間へと消えるのを確認して、緋村は踵を返す。
桂に手渡された札に従いある建物に入り、持っていた札を主人に手渡すと、主人は恭しく礼をして緋村を二階へと案内した。
「何かお召し上がりに?」
「……では酒を一つ。」
「何某かお呼びしましょうか?」
「いや、いい。」
「かしこまりました。」
障子が閉められて、主人が階下に下りていく。
その音を聞いて、緋村の心は少しだけ休まった。
ここ最近、再び増えるようになった“仕事”。
相手の顔も素性も何一つとして知らぬまま、気づけば自分は相手の肉に刀を突き刺している。
そこに自分の感情など、一切存在しない。
いや、あえて何も考えないようにしているのかもしれない。
しかしながら、もし……
もし自分が人を斬るその瞬間に感情を意識したのなら、果たして自分は振りかざした刀をそのまま振り下ろすことが出来るのだろうか。
――いや、案外あっさりと振り下ろすことができるのかもしれない。
それほどまでに、自分は狂ってしまった。
この狂気は最早、桂が掲げる“狂気”とはまた違った性質を帯び始めている。
「失礼致します。」
障子の向こうから聞こえるのは、先ほどの主人とは違う若い女の声。
他人の声を聞いて反射的に刀に手を伸ばすも、声の主が女だと理解した瞬間、緋村は刀に置いた手を自分の膝の上に戻した。
「冷や、お持ちいたしました。」
すす……と開けられた障子の向こうに見えたのは、齢十七、八の線の細い女。
酒の乗った膳を両手で支えながら部屋に入ると、慣れた手つきで障子を閉める。
「どうぞ。」
そう言って緋村の前に膳を置いた女はするすると部屋の隅に移動し、背に負っていた三味線を膝に置いてその場に座り込んだ。
そして、静かに指で弦を弾きだす。
「君……」
「はい。」
声を掛けても、ピクリとも動じず。
弦を弾く指はそのままに、ただ言葉だけはしっかりと返してくる。
「俺は誰も呼ばなくて良いと主人に話したはずだが。」
「はい。しかしながら私は芸者ですから。貴方が誰かをお呼びになるまでお相手をするようにと、主人に申し付けられました。」
「いや。気遣いはありがたいが、俺はいい。」
「しかしながらそれでは私も困ります。勤め上げなければ、主人から金が下りませぬ故。」
こうまでピシャリと言い放つ芸者に会ったのは初めてであったから、緋村は少々面食らった。
客として行った店で自分の意見が通らなかったことなど、皆無であったのだ。
それなのに今回は相手が女――しかも芸者ときた。
思いがけぬ事態に一瞬言葉を失ってしまったが、猪口を口に運び、また一つ咳払いをして緋村は続ける。
「一人になりたい。席を外してくれ。」
「では私のことはお気になさらずに。弦を弾くだけで、お声を掛けたりはしません。」
「そうではなくて……、分かった。金が欲しいのなら好きなだけ――」
「私は自分の芸以外で、そういったものをいただこうとは考えておりません!」
ぷつり。
頭の中の何かが切れた。
思考回路の停止した頭で女に詰め寄り、荒々しく手首を掴む。
そしてその手首を引き寄せてもう片方の手首を捉えようとしたとき、懐に飛び込んできた女のもう一方の手に握られていた棒が、抉るような角度で緋村の足をすくった。
――な、に!?
相手は女――しかも芸者ということで完全に油断していた緋村はとにかくその棒を交わすことで精一杯で、反撃をする間合いも無く、とりあえずは女の腕を解放して飛び退く。
そして畳の上に着地して刀に手を掛けた瞬間、女は手に持っていた棒を畳の上に置いて、再び弦を弾き始めた。
「…………」
「芸者は……、芸は売っても色は売りませぬ。」
「……え?」
「ご無礼、どうかお許し下さい。」
――何なんだ、この女。
先ほどの鋭い気はどこへやら。
再び座り込んだ女は、まるで何事もなかったかのように三味線の弦を弾いている。
その姿が悲しげなようで、美しいようで。
とにかくその女に対する緋村の思いが、変わり始めていることには違いなかった。
「俺の方こそ、悪かった。……名前は?」
「薫……と申します。」
指先は依然として弦を弾いてはいるが、名を尋ねられて初めて、女はふっと顔を上げる。
そして柔らかく微笑みながら、緋村の問いに答えた。
* * *
「では、江戸からはるばる京都まで来たのか?」
「ええ。私にはあいにく身寄りもおりません。父が遺してくれた屋敷も、権利書を取り上げられて人手に渡ってしまいました。」
先ほどの彼女の身のこなしについて緋村が思うことを正直に話したところ、それを聞いた薫は嬉しそうに微笑む。
そして自分が以前は江戸に住んでいたこと、実家は剣術道場で薫もそれなりの技を叩き込まれたことなどを話してくれた。
「旦那はいるのか?」
「いえ。私は元々芸妓を学んでいたわけではございませんので。こういった芸に関しても、ほとんどが見よう見真似でございます。」
そう言って弦を弾いた薫が申し訳なさそうに微笑む。
その音はまるで彼女の心を表しているかのように、ひどく悲しげであった。
しかしながら旦那がいないとなれば、薫の生活は非常に苦しいものに違いない。
こんな前座のような仕事ばかりでは食べることも儘ならないであろうに、彼女は一体どのようにして生活しているのであろう。
「緋村さん、どなたかお呼びになられますか?」
「……何故?」
「何故って……、このように大した芸を持ち合わせているでもない人間を相手にお酒を飲んだところで、美味しくはないでしょう?」
「いや、そのようなことはない。」
「しかしながら……」
「君が良い。君に、居てほしい。」
酒の味など、とうの昔に忘れてしまった。
記憶の片隅で何となく覚えていた味も、いつの間にか血の臭いで上塗りされてしまった。
しかしながら、今夜は何となく酒が旨く感じる。
猪口を口に運んだときに鼻を抜ける香りも、喉をじんわりと焼くような熱さも。
酒を口にしてふわりと心地の良い気分になるのも、一体いつ振りであろうか。
「……ありがとう、ございます。」
一瞬動きを止めた薫の指先が、ぎこちなく動いて再び弦を押さえる。
その間に動いた緋村の手が薫の指先を包み込んで、薫の華奢な身体は緋村の胸元に吸い込まれた。
「ッ……、緋村さ――!」
「何もしない。君の信条も侵さない。だからもう少し、このままで。」
反射的に緋村の胸を押し返した薫の両手に再び力が入ることはなく、ゆるゆると畳の上に落ちていく。
そして薫が緋村の温かさに慣れた頃、その両手はゆっくりと、緋村の背に回された。
そのとき、障子の向こう側で微かに人の気配。
「緋村さん、先生がお帰りです。」
「――分かった。」
話し合いは長くなると言っていたのではなかったか。
それとも、そんなにも長い時間が経ったのだろうか。
分からない。
しかしながら、何故かひどく名残惜しい。
「ッ、緋村さん……、お帰りの時間が……」
「ああ……」
薫の身体を抱く腕に少しだけ力を込めると、腕の中の薫は少し苦しそうに小さく息を漏らす。
そんな彼女の反応に後ろ髪がますます引かれる思いであったが、緋村はやがて彼女の身体をそっと離した。
「今日はありがとう。こんな風に自然に笑うことができたのは、久しぶりだった。」
「私も……!とても楽しゅうございました。ありがとうございました。」
「次は是非、君の剣道のお手並み拝見といこう。君も三味線より、そちらの方が性に合っているのだろう?」
「ッ!そ、そりゃあ三味線は上手くないですけど……。でも緋村さんにしてみれば……、竹刀剣術なんて戯言で……。」
そう言いながら口ごもってしまった薫の頭を、緋村の掌が包み込む。
何故だろう、これほどまでに心が穏やかになるのは。
それは彼女が芸者らしくないから?
それとも……
「確かに剣術は殺人術。刀という凶器を竹刀に置き換えたところで、その真実までもが置き換えられるわけではない。
しかしながら俺は……君が大切にしている流儀の方が好きだ。それがたとえ、戯言であっても。」
薫に背を向けた緋村が障子に手を掛けた瞬間、緋村の髪が急に後ろに引っ張られて、ガクンと顎を突き出す形になる。
その地味な痛みに勢いよく後ろを振り返ると、下を向いて腕を差し出した薫の手に何かが固く握り締められていた。
「……これ、私の一番のお気に入りのリボンです。」
「え?」
「あの、その……何と言うか、……お守り、です。」
差し出された彼女の手は小刻みに震えていて、その顔は真っ赤。
そんな薫の様子に気づいた緋村は思わず噴出しそうになったけれど、それをなんとか堪えて彼女の腕から藍色のリボンを受け取る。
「また来るよ。」
そして今度こそ薫の元を離れて階下に向かうと、そこには柔らかく微笑む桂の姿。
草履を履きながら「お待たせしました。」と短く伝えると、桂は至って普通に「いや」と答えた。
「お前のそのような顔は久しぶりに見た。」
「…………」
「帰るか。」
「…………はい。」
さすがは桂というべきか。
思いがけず痛いところを突かれて歪んでしまった表情を、緋村は必死に戻す。
やはりこの人には敵わない。
その洞察力も、心の広さも。
* * *
後日、緋村は再び例の茶屋を訪れた。
しかしながらそんな緋村を待っていたのは、驚きの事実。
「薫、でございますか。はて……そのような芸者は……」
なんと誰一人として、薫のことを知るものはいなかったのだ。
あの日世話になった主人も、緋村のことは覚えているのだが、薫のこととなるとおぼろげであるようで、
「旦那付きでないならば、行方を探るのは難しいかと……」と渋い顔。
結局、薫の行方を掴むことはできなかった。
そうこうしている内に時間も迫り、緋村は茶屋を出て夕暮れの空を仰ぐ。
随分と日が長くなったせいか、空の端の方では青色と橙色が溶け合うようにして混ざり合っていた。
おそらく芯の強い彼女のことだから。
きっとどこかで、同じようにこの空を仰いでいる。
手がかりはなくしてしまったけれど、彼女が存在したという証拠は今もこの胸元に。
“また会いに行くよ。”
藍色のリボンに指を絡めながら、緋村は小さく呟いた。
>>>>終
2010.05.22
67000番、彩癸様にいただいたリクエストです。
パラレルワールド!
作品中の年齢は、緋村は19歳で薫殿は17歳くらい。
本文中にも示してますが、薫殿は芸者という設定です。
あとは自分の好きな要素をできる限り突っ込みました。
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