頬が焼けるように熱くなって、頭の中がいっぱいになったかと思いきや
くらり――
視界が揺れた。
聖 女 の 鉄 鎚
「…ただいま」
ガラリ、と入り口の戸が開いた音を聞きつけて、「おかえり」と言いながら奥の部屋からぱたぱたと出てきたのは剣心である。
「早かったでござるな。」と言って襷を解いた剣心は、「もっとゆっくりしてくれば良かったのに」と言いかけて言葉を飲み込んだ。
薫の様子がおかしい。
「薫殿?どうかした?」
「…ううん、何も。」
「具合が悪い?」
「…ちょっとだけ、横になってきても良い?夕飯の準備は手伝うから…」
「それは一向に構わぬが…」
話している間も心ここにあらずといった感じで、ふらふらと足取り重く自室へ向かう薫の様子は、今朝とは大違いである。
ずっと前から今日という日をそれはそれは楽しみにしていたはずなのに、いったい何があったのか。
しかしながら、当の薫はふさぎ込んでいる理由を話したくないようで、さきほどの短い会話の中でもこれ以上の追究は勘弁してほしいとでも言うように剣心に対してしっかりと境界線を張った。
そしてそのことには剣心もしっかりと気づいている。
となると、薫が心を開かないうちに剣心の側からあれこれ問いただすのは、あまり芳しくなく、最悪の場合拒絶されかねない。
心配なのは山々ではあるが、かといって無理を押して嫌われるのは真っ平ごめんだ。
後ろ髪を引かれる思いではあるが、とりあえず剣心はおとなしく薫の様子を見守ることにした。
* * *
さて。
薫が何故今日の日を楽しみにしていたのかと言うと、それは実に簡潔な理由であった。
1ヶ月ほど前に、神谷家に届いた一通の文。
それは他所に嫁いだ旧友からのもので、お産を控えて実家に戻るので、そちらにも顔を出すと言うものである。
すると誰ぞの思し召しやら、たまたま他の友人の帰省もちょうど同じ時期に重なったため、それならば皆で会おうではないかということで意見が一致。
そしてその話が纏まってからの薫の嬉しそうな様子と言ったら、なかったのだ。
それがどうだ。
疲れた……というか、心ここにあらず……というか。
いつもの彼女はどこへやら。
はしゃいでいた彼女はどこへやら……、である。
予定より早い薫の帰宅と、元気のない薫の様子と。
様々な不安要素が乱雑に組み合わさって、剣心の思考はますます乱れる。
何かをしようと思い立ちあがっても意識はどうしても薫の方に向いてしまい、結果自分が何をしようとしていたのか思い出せない。
頭の隅には必ず薫がいて、その薫が微笑んでいないと、どうにもこうにも落ち着かないのだ。
瞬間。
身体が跳ね上がるように動いた。
嫌がられるとか、拒絶されるとか。
そのような事は、当たってみなければ分からないのだ。
嫌われても、ぞんざいに扱われても。
彼女がいつかは自分を受け入れてくれる自信があった。
受け入れさせる自信があった。
「薫殿。」
薫の部屋の前に立ち、障子越しに声をかける。
正月に張り替えたばかりの障子はまだ白く、その真白に自分の影が映し出される。
背中をじりじりと焦がす西日は、少し目を細めないと眩しいくらいだった。
「薫殿。入るでござるよ?」
返事のないことを都合の良いように解釈して――
というよりか、薫の返事があれば自分がこの部屋に入る事は許されないだろうから、半ば押し切るような形で彼女の部屋へ足を踏み入れる。
すると案の定びっくりした顔で自分を見上げた薫は、しばらくぽかんと口を開けたまま言葉を失っていた。
「薫殿、どうかした?帰ってきてから、ずっとその調子でござろう?」
「…ゆ、夕飯の支度なら手伝うから…だから」
「何かあった?どうしても言いたくないなら無理強いはせぬが…。それでもやはり、心配でござるよ?」
部屋の隅で小さくなる薫の前に腰を下ろした剣心が、そっと薫の顔を覗き込む。
しかし、俯いた顔は流れる前髪に隠れてよく見えない。
また、西日のせいか、暑さのせいか。
気のせいなのかもしれないが、薫の頬は淡く染まっているようにも思える。
はて。
もしや本当に具合が悪いのかと呑気な事を考えながら、ふと自分の位置を確認したそのとき。
……し、まった!
夢中で詰め寄っていたせいか、普段の距離を大幅に超えて彼女を圧迫していたことに今更ながら気づき、滑りそうになるのをなんとかこらえて、慌てて後ろへ飛び退く。
のだが、時既に遅く。
部屋の隅で先ほど以上に丸く縮こまっている彼女の頬は、これでもかというほどに真っ赤であった。
「か、薫殿!申し訳ない。」
「………………」
「拙者強引すぎた!申し訳ないでござる!」
「………………」
「拙者あの、その…そう!夕餉の準備をしてくるから、薫殿は調子が良くなるまでゆっくりとしているでござるよ!」
ああしまった。
自分はなんて馬鹿なんだ。
あれだけ気合を入れてきたのに、順序をすっ飛ばしたら意味がない。
即座に立ち上がり、踵を返す。
いきなり血流量が多くなった自分の心臓も、らしくないほどドクドクと音を立てているのが分かった。
慎重に考えるよりも先に身体が先に動くなんて、自分はなんと衝動的なのか。
ひどい動機で痛む心臓を摩りながら障子に手を掛けたとき、背中に柔らかい衝撃、胸に微かな圧迫感が生じた。
「か、おるどの?」
細い指で胸元を握りしめられる感触と女らしい甘い香りが迫ってきて、即座に頭の中で複雑に絡まっていた糸が結び付く。
この状況を、とっさに理解できぬほど鈍ではない。
彼女が後ろから抱きついてきたことは、すぐに理解できた。
「あの、えっと……薫殿?」
しかしながら、真っ白になった自分の耳に飛び込んできたのは、なんとも情けない自分の声。
とりあえず、抱きつかれたことは理解できたのだが、思考回路はそこで止まってしまった。
自分の頭はどうやら、この状況を理解する事で精一杯であったらしい。
鈍ではないと思っていたが、その代わりに、限りなく愚鈍に近かった。
障子越しに、柔らかい光が差し込む部屋の中。
甘い空気に酔いそうになって、足が痺れる。
後ろから回された華奢な腕の中、合わせ目の辺りを掴んでいた細い指が、そっと鳩尾を撫でた。
手汗を握る自分とは対称的に、乾いた、滑らかな指先の感触。
それでいて彼女のそれは驚くほどに冷えていたから、雰囲気に呑まれて火照っていた自分の身体はひどく反応する。
本能的に、何かが、脈打つように疼いていた。
「証拠が、欲しいの。」
彼女は唐突にそう言った。
何の脈絡も、前ぶりもなかった。
ただ独り言のように、ぽつりとそう言った。
彼女が言いたい事は、なんとなく分かっていた。
しかし、やはり“なんとなく”の域を出るものではなかった。
つまり、彼女の本心が明確にならないうちは、動くのが躊躇われた。
自分は彼女の反応を恐れていたのだ。
ドクドクと成り続ける心臓は、未だその興奮が止まず。
次いで、脳みそが物凄い勢いで膨れ上がり、頭蓋を圧迫するような感覚に陥る。
そんな自分の状況を知ってか知らずか、肋骨をなぞるように素肌を滑る細い指。
当初は遠慮がちに触れていたそれは、やがて掌全体による愛撫へと変わる。
積極的に触れるようになったとはいえ、たどたどしい事には変わりない。
しかしそんな彼女の様子がまた、自分の心を大きく揺さぶった。
溶けるように、吸いつくように触れ合う肌は、互いの温もり以上を求めない。
ただ傍に存在を感じるだけで、それだけでこの上ない心地よさに浸ることができた。
* * *
汗ばんだ身体に纏いつく艶やかな黒髪を丁寧に払いながら、剣心は腕の中の薫をじっと見つめていた。
まだ息を上手く整えきれていない薫の身体は、元が白いせいか、薄く桃色に火照っているようにも見える。
つい先ほどまで存在していた、自分と薫の間の隔たりはもうない。
柔らかい感触と心地良い重みを感じながら、剣心はずっと気になっていたことを薫に問いかけた。
「薫殿。今日、何かあった?」
「……」
「しつこくてすまない。けれど、やはり心配になる。」
まっすぐに、自分の思っていることを言葉にしたつもりだった。
しかしながら、薫の視線は逸れた。顔を見ずとも分かる。
薫の焦っている様子は、雰囲気で飲み込めた。
真剣な空気にならないように、努めて表情を崩したつもりであったが、果たして上手く笑えていたのだろうか。
しばらくの沈黙のあと、何度か思い詰めるような様子があって、薫は再び言葉を飲み込む。
そして更なる沈黙が流れたあと、ようやく彼女はその小さな口を開いたのだった。
「飽きられる……、って」
「え?」
「受け身ばかりじゃ、飽きられるって……、言われて」
「誰に……、っ!」
反射で尋ねて、彼女から答えが来る前に分かってしまった。
これだ。
これだったのだ。
彼女の頭を一瞬にして支配してしまったもの。
彼女は、おそらくは彼女自身ではどうすることもできない大きな問題を、なんとしてでも自分に悟られないように解決しようといっぱいいっぱいになっていたのだ。
「薫殿」
頭の中で全ての糸がつながると、なんだか全ての事が大変に滑稽なことに思えてきて、我慢するのも忘れて思わず吹き出してしまった。
すると当然、顔を真っ赤にして彼女は怒る。
真剣に悩んでいたのに!
笑うだなんてひどい!
そんな風に一生懸命になるものだから、ますます可愛らしくて仕方がない。
こんなに可愛い彼女に何か気の利いた言葉はないかと考えを巡らせたけれど、どれもこれも彼女には敵わなかった。
確かに、彼女に攻められるのも、非常に魅力的ではある。
しかしながら――
「拙者はこちらの方が好きでござるよ。」
そう言って、両手を封じる形で彼女の身体を畳に押し付けると、ぱちくりと目を見開いた彼女の思考が止まる。
微動だにせぬまま一拍置いたあとに、まるで爆発するかのようにに真っ赤になった彼女は、睫毛を濡らさんばかりに瞳を潤ませて、微かな抵抗を見せながら顔をそむけた。
なんなんだ、それは。そのような反応をされたら、思いがけずこちらまで頬が熱くなる。
あまりにも純粋すぎる彼女の初々しい反応に腰が砕けそうになって思わず、「飽きるわけがないでござろう」と独りごちたのであった。
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2009/06/27
66000番、リサ様にいただいたリクエストです。
薫殿が緋村氏に迫るお話。