言葉にしなければ伝わらないことが、きっとたくさんあるはずなのに。





素 直 な 気 持 ち 、 腕 の 中





「剣さん、どうなってるの?あの子ちゃんとご飯食べてるんでしょうね?」


眠るように意識を失った薫の様子が落ち着いたことを確認して、恵と剣心は静かに居間へと移動する。
そして畳の上に座り込んだ途端に恵の口から飛び出したのが、先ほどの台詞だ。


「量は以前と比べて少なくなったものの、しっかりと食べてはいるのでござるが……」

「それにしては痩せすぎです。
 私は専門ではありませんから断言はできませんが、私の経験からしても、この時期に痩せることはあまり良い傾向ではないと思います。」


恵が剣心の性格を知らぬわけがない。
剣心がどれだけ薫のことを気にかけているか、どれだけ大切に思っているか。

ましてや、人一倍小まめな剣心のこと。
万一薫が食事を絶つようなことをしていたとしても、あれやこれやと薫を説き伏せて、何かしら口にさせているだろう。

そのようなこと、重々承知してはいるけれど、それでも声を荒げずにはいられない。
それは全ての感情を抜き去っても、医者である恵にとってどうしても譲れぬ一線なのだ。


「今あの子の傍にいるのは貴方しかいないのですから、しっかり見てあげてくださいな。表面だけではなく、内面も。」

「内面……?」

「今まで毎日のように竹刀を振り回していたあの子が、体力の限界を迎えたとは考えられません。だとすれば、考えられるのは精神の問題でしょう。」

「薫殿に……何か思い悩むことが?」

「ええ、あるのではないでしょうか。そしてそれはおそらく、剣さん絡みのこと。」

「拙者?」

「だってあの子が一喜一憂するなんて、貴方のこと以外考えられないでしょう。」


そう言って柔らかく微笑む恵とは対照的に、瞬時に表情を固まらせて思案をめぐらす剣心。

薫が体調を崩すほどに、思い悩むこと。
その原因が、己にある。

しかしながらどうしても剣心には、それらしきものが思い浮かばない。
こんなにも近くにいるのに、何故気づくことができなかったのか。

自己のあまりの不甲斐なさに、剣心は言葉を失ってしまった。


「剣さん、あまり考えすぎずに。身篭っているときは、どうしても精神が不安定になりがちですから。普段は気にも留めていなかったことが、急に迫ってくることだってあります。」

「しかし……」


薫が色々と不安を抱えていたときに、その不安を汲み取れなかったことは事実で。
自分に助けを求めていたこともあったかもしれないのに、自分はそれを見過ごしてしまったのだ。

静かに向かい合う剣心と恵の間を、通り抜ける五月の風。
それは温かいようで、しかしこの気温を考えれば涼しいようで。

風は部屋のものを舞い上げてはパラパラと音を立て、そしてどこかへ消えていく。
その音のする方へふと視線を向けた恵は、少し目を細めて懐かしむように言った。


「もしかしたら……あの子にとっては無意識のうちに、忘れることのできない傷になっているのかもしれませんね。」

「……傷、――ッ!」


恵の視線を、剣心が追う。
そのときに視界に入ったモノ。


忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。

しかしながらこの文字が薫にとって、憂鬱の対象になり得る可能性については考えもしなかった。
どうして、気づくことができなかったのだろう。


「まあ結局、周りがどうこう言ったところで、実際あの子はそれほど深く思い悩んでいないのかもしれませんし。
 剣さんが傍にいれば、放っておいても元気になるでしょう。」

「恵殿……」

「では、私はこの辺りでお暇します。何かあれば、診療所まで。」

「あ、ああ……かたじけないでござる。」


出された茶を飲み終えてふわりと微笑んだ恵が、荷物をまとめて立ち上がる。
そんな彼女を見送るために剣心が玄関までつき従うと、下駄を履き終えた恵はくるりと振り返り、「ではここで」と言うように軽く頭を下げた。

――薫殿は。

以前に比べると、食べる量は少し減ったものの、出した料理は残さず全部食べてくれて。
見ている限りではいつもニコニコして、楽しそうに縫い物をしたりしていたのに。

それなのに、急に過呼吸になって倒れるなんて。



薫が眠っている部屋の襖を静かに開けると、薫は先ほどと同じように穏やかな寝息を立てている。
小さく上下する肩をぼんやりと見ているうちに、ようやっと剣心の心の中が落ち着いてきた。

西日が差し込むこの部屋は、熱が篭っているせいか少し暑い。
空気の入れ替えも必要だと思い少しだけ戸を開けると、日中の強い日差しに似合わぬ心地よい風が部屋の中に入ってくる。



――無意識のうちに、忘れることのできない傷になっているのかも



頭をよぎる恵の言葉。
何とも言えぬ不安感に、胸が押しつぶされそうになる。

そんな不安を振り払うようにして薫の枕元に腰をおろした剣心は、彼女の額に滲む汗をそっと手拭いでふき取った。
と、そのとき。


「剣、心……」

「すまぬ。起こした?」

「ううん……、恵さんは?」

「先ほど診療所の方に……って、わ!薫殿!」


話している最中にゆっくりと身体を持ち上げ始めた薫を見て、慌てて彼女の背に腕を滑り込ませる剣心。
すると案の定ゆらゆらと覚束無い様子の薫は、その胸元に吸い込まれるようにして剣心に寄りかかった。


「ごめ……なさい、貧血……」

「まだ辛いでござるか?何か飲み物を……」

「ううん。飲み物より……、剣心が良いな。」

「え?」

「あとちょっとで良いから、ここにいて。」


忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。

巻き込みたくないから、なんて口実で。
自分の勝手で、自分の都合で彼女に別れを告げたのに。

ふと思い出すのは、彼女の声。
ふと呼びそうになるのは、彼女の名前。

空耳なんて、しょっちゅうで。
夢と現実の区別なんてつかなくて。

ああ、これは報いなのだと。

あの日、誰にも知らせずに、何も言わずに、姿を消すことだってできたはず。
それでもこの家に足を向けたのは、今まで世話になった礼を言うためではない。

自分は、彼女に託したのだ。
ささやかな自分の想いを。

そして試したのだ。
純粋な、彼女の想いを。


「……ああ、ここにいる。」


今日も明日も明後日も。
いつまでも君の傍にいる。

君の笑顔が見たいから。

君を笑顔にしたいから。






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2010.05.15

64000番、美幸亮様にいただいたリクエストです。
『こんにちは、赤ちゃん♪』薫殿懐妊中のお話。