一日中眩しい太陽を、一睨みすると汗が流れた。
去年の夏はこんなに暑かったかしら。
そんな不満をぼやきつつ庭先の布団を裏返していると、遠くの方からよく知る足音が聞こえてくる。
額の汗を指で拭い声をかけようとしたところ、戻ってきた彼の顔があまりにも険しかったものだから怯んでしまった。
脆 く 愛 し き も の
「……おかえり、なさい。」
「……ただいま。」
「あ!暑かったでしょう?今お茶を……」
「薫殿。話がある。」
こ……、恐っ!
きっと今の彼は、私が知る過去において5本の指に入るほど機嫌が悪い。
しかしながら、何か彼の機嫌を損ねるようなことをしでかしただろうか。
そう思いあれやこれやと考えてみるけれど結局原因らしきものは思い出せず、有無を言わさぬ彼の雰囲気に縛られたように私は彼に従った。
「困っていること、どうして拙者に言わなかった?」
「困ってること?」
「出稽古の帰り。何度か後をつけられたのでござろう?」
「……ああ!」
剣心が何のことを言おうとしているのかが全く分からずに本気で首をかしげてしまい、そして返ってきた言葉に力強く手を打ってしまった。
というのも、確かにそのようなことがあったのは事実なのだが、それを覚えていられるほど気がかりなものではなかったのだ。
少なくとも、私にとっては。
後をつけられたのは事実だが、それ以上のことをされたわけではない。
それ以上のことをしてこないということは、つまり、それ以上のことができるほどの腕を持ってはいないということで。
それならば、それほどまでに身構える必要など無いではないか。
そう考えていたのである。
「どうして言わなかった?」
「どうしてって……、言うほどのことでも……ないかと思って……。」
「それは拙者が判断する。」
「判断しないでしょう?言ったら絶対に迎えにくるじゃないの。事が大きくても、小さくても。」
「当り前でござろう。心配でござる。」
う、わ。
剣心の言葉に口元がゆるんで、思わず顔を伏せた。
頬が燃えるように熱い。
落ち着け。落ち着け薫。
あの言葉に、とりわけ深い意味は含まれていない。
他意はないのだ。
必死にそう言い聞かせながらゆるんだ顔を何とか直して、気づかれないように咳払いをする。
表情と声が普段の調子に戻ったことを確認して、私は彼に小さく笑った。
「もー…う、心配しすぎなのよ剣心は。大丈夫よ。実際何も無かったんだから。」
「薫殿!だからと言って」
「それに!あなただってお仕事があるじゃないの。私に構ってる暇なんてないんじゃない?」
「…………」
「…………もう、いいでしょう?この話はおしまい。さ、休憩にしましょう。」
“売り言葉に買い言葉”というわけではないが、つい言葉にトゲが出た。
「しまった」とは思ったけれど、一々訂正するのも億劫で。
それに、これ以上話を続けていても、おそらくは何も見えてこない。
お互いに踏み込んでも良い領域とそうでない領域の間にしっかりと線引きをしているから、これ以上話を続けたところで何の発展も見ることができないのは分かり切ったことだった。
額の汗を拭いながら、玄関から部屋の中へ上がる。
脱いだ草履を揃えようと後ろを振り返った瞬間、ものすごい力で手首を握りしめられた。
「痛っ……!」
「心配しすぎて、何が悪い。」
「……え?」
「薫殿でなかったら、これほどまでに心配などしない。」
玄関口で唐突に告げられた言葉に、私の頭は真っ白になった。
彼の言葉の意味が分からない。
いや、言葉の意味自体なら理解できるのだ。
しかしながらその言葉を“緋村剣心”という人物が発しているという前提の下に考えると、まったく意味が分からなくなってしまう。
彼の人間性、趣向、その他彼を構成する様々な要素を鑑みた上でも、やはり理解することはできなかった。
それほどまでに今のこの状況は、異質で異様な光景として、私の目に映っていたのだった。
あなたは……自分が言っていることの意味を分かっているの?
その言葉を世間一般的に解釈すると、とんでもない重さを持つことになるけれど。
あなたは……そんなに簡単に、二人が必死に保ってきた関係を崩そうとするの?
冗談じゃない。
今まで何度か勇気を出した私を、大人の顔であしらってきたのはあなたじゃないの。
決して言葉にはしないけれど、「想っても無駄だ」と態度で示してきたのはあなたじゃないの。
やっと……諦めかけていたのに。
あなたの傍にいられるだけで良いと思えるようになっていたのに。
忘れかけていた願いが、じわりじわりと蘇る。
どうせ叶わない願いなら、今更思い出させて欲しくなかった。
「……勝手なこと言わないで。」
「薫殿……?」
「今更そんなこと言わないでよ!期待させるようなこと言わないで!」
自分の中で、何かが切れた。
異質で異様な光景を目の当たりにしたせいで、自分の中の境界がおかしくなってしまった。
言うつもりでなかった言葉も、繕っていた表面も、何もかもが崩れ落ちて溢れていく。
「この先どうなるのか」とか、「元の関係に戻れるのか」とか、そんなことは頭の中にはなく、ただ積もりに積もった気持ちが次から次へとこぼれていった。
「振り向いてもらえなくても良いって……傍にいるだけで良いって……、やっとそう思えるようになったのに。
好きな人が他の女の人の警護をするって聞かされたら、決心なんて簡単に揺らいで……」
「薫殿それは……!」
「分かってる!仕事だから仕方ないって……。でも…、仕方ないじゃない。自分でも、どうにもならないの。」
仕事だから仕方ない。
そんな当たり前のこと、分かっている。
分かっているからこそ、そんなことに不平を言うのは子ども染みていて嫌だった。
でもやっぱり、我慢できない。
良い子を演じきれない。
「剣心のことがすきなの。ダメだってわかってるけど、どうしようもないの。聞き分けの良い女になれないの。どうにもならないの。」
どれだけ気持ちを抑えようとしても、剣心の言葉に一喜一憂してしまう自分がいる。
彼の言葉に自分の期待している意味が含まれていないと分かっていても、気持ちが踊る。
仕事とはいえ、一日中私の知らない女性の傍にいると聞かされたら、胸が詰まるように苦しくなる。
無理矢理に抑えたつもりであった気持ちは、やはり抑えきれずに溢れだしてしまった。
掴まれた瞬間からずっと力を緩めることなく保たれているそこは、感覚が麻痺しているかのようで、熱さも感触も分からない。
それでも振りほどく気にはなれずに判断を彼に委ねていたのだが、互いに言葉を失ってしまった今となっては、無理のある時間稼ぎのようにも感じられた。
「なん、ちゃって……」
そしてこの沈黙に耐えられなくなったのは私。
一歩後ろに後ずさりながら努めて明るく振舞おうとするけれども、きっとその笑顔はぎこちない。
必死に言葉を探そうとすればするほど頭の中は真っ白になって、ついには剣心と目を合わせることも儘ならなくなってしまった。
彼の視線から逃げるようにして、掴まれていた腕を引く。
すると、さきほどまでピクリとも動かなかった自分の手が、するりと彼の掌を抜けた。
その様子はなんとも滑稽で、まるで私が大げさに力を入れたよう。
そしてそれが彼の無音の答えであることに気付いた私は、恥ずかしさに耐えきれずに彼から逃げ出した。
つもりだった。
のだが。
彼から逃げ出した瞬間。
本当に本当に、その僅かな一歩を踏み出した瞬間。
音もなく後ろから伸びた手に私の身体は絡めとられて、彼の元へと吸い込まれていく。
驚く間もなく、声を上げる間もなく。
文字通り彼の腕の中にすっぽりと収まった私は、しばらくの間呆気にとられて開いた口が塞がらない状態であった。
「薫殿は本当に、仕様のない御仁でござるなあ。」
「……な、によ、迷惑なら放っておいて。」
「そうではござらん。迷惑だと思っていたら、拙者はここにはおらぬよ。」
彼の言葉の意味がわからない。
彼の言葉に世間一般の解釈を適用すると、式が成り立たない。
だって私の中の彼は、そういう人じゃない。
間違っても、私に振り向いたりしない。
「このように住まわせてもらっている手前、薫殿をそういう風に見ないようにと努力していたのに。」
「……え?」
「そんな努力を簡単に砕いてしまうのだから、本当に困った御仁でござる。」
彼の言葉を理解しないうちに、ふわりと身体が浮く。
その不思議な感覚は彼に抱きあげられた故にもたらされたものであると気づいたのは、それから少しした後。
驚いて顔を上げると、そこには半ば呆れたような剣心の顔があった。
「此処に来て後戻りは無理でござるよ。拙者はもう、努力する気はないでござるからね。」
そう言って私を抱えたまま歩きだした剣心が向かうのは、方向的なものから考えるとどうやら彼の部屋であるらしい。
張りつめた雰囲気ではないけれど、剣心がずっと黙っているものだから、その沈黙がどうしても気になってしまう。
しかしながらこの雰囲気の中では、無理に言葉を発するべきでもないような気がしたので、結局は無言のままに、私と彼とは目的の場所へとたどり着いたのであった。
「さて。」
小さく息を吐いたのと同時に、彼は畳に腰を下ろした。
もちろん私の身体は彼に抱えられたまま。
というのも、彼が腰を下ろすのと同時に私も彼から離れようとしたのだけれど、彼がそれを許さなかった。
すっぽりと嵌った身体を抜こうともがく私に、「抜けられるなら抜けてみろ」とでも言いたげに、穏やかな目を寄せている。
どうせ逃がすつもりもないのだろう、考えれば彼はいつも私に対して焦った試しがないのだ。
と、そのとき。
何の予測も心構えもしていなかった私の視界に急に剣心が割り込んできたかと思えば、普段の境界線をあっさり通り抜けて彼の顔が迫ってきた。
そんな突然の事態に当然の如く驚いた私が咄嗟に顔を背けると、そのような抵抗はお構いなしで、彼の唇がそっと私の頬に触れる。
普段の何倍も近くなった距離と、唇の柔らかさと。
慣れない展開に加えて、私の周りが彼の匂いでいっぱいになった瞬間、いよいよ私の身体は燃えるように熱くなった。
「け、剣心!」
「今回ばかりは薫殿が悪い。諦めるでござる。」
「で、でも、あの……そのッ」
どれだけもがいても執拗に追いかけてくる彼の唇が、拒む両腕の合間を縫って、目蓋や鼻先に触れる。
その度に、熱を帯びる私の身体と揺らぐ決心。
ついには彼との間に必死に壁を作っていた私の腕までもが取り払われて、再び手を滑り込ませる隙間もないほどに距離を詰められてしまった。
「あ、あの!さっきのは……勢いで飛び出たというか、その」
「そうでござるなあ。いやあ、驚いた。」
「ッ、あ、あの、……なかったことに!」
「それはできません。」
必死に縋る私を一刀両断する剣心。
そしてなおも食い下がる私に対して「時間切れ」とでも言うかのように、顎に緩く指先を引っ掛けて私の視線を上げさせる。
視線を上げた先には、いつもと変わらぬ穏やかな顔。
そんな彼と目があった瞬間、どうあがいても無理だということを、私は悟ってしまった。
もうだめだ。
だってもう、これ以上言い訳が見つからない。
「拙者も……何度も薫殿を諦めようとしたけれど、無理でござった。」
「……え?」
「薫殿に甘えてしまい、かたじけない。」
私の耳を貫いた彼の大告白は、普段の彼からはまるで想像がつかなくて。
それでも、何でもないように笑っているのが憎たらしい。
しかしながら彼の頬が僅かに染まっているのは、恥じているのか照れているのか。
どちらにせよ滅多に見ることのできない彼の一面を堪能するつもりであったのに、不意に唇を重ねられて、そんな余裕はどこかへ飛んで行ってしまった。
これまで抑えていた気持ちが溢れだしたかのような口付けに、酸素が奪われる。
努力を放棄した彼に呑まれていく中で、大人とはこうも不都合なものなのだと知り、彼のこれまでの努力を密かに称賛したのであった。
>>終
2009/09/10
61000番、フジ様にいただいたリクエストです。
喧嘩するほど仲が良し?緋村氏と薫殿が喧嘩するお話。