ビター・スイート
“今日ご飯作って待ってるね”
そんなメール一つで瞬時に元気になれる、そんな28歳もどうかと思うけれど。
それでもやはり、疲れて家に帰った自分を、可愛い彼女が出迎えてくれるというのは素直に嬉しい。
“分かりました”
本当は嬉しくて嬉しくてたまらないくせに、なんだか淡白になってしまう自分のメール。
それでも彼女にあまり格好の悪いところは見せたくないので、これくらいにしておこう。
「緋村さん、この砂糖の量なんですけど。」
「ああ、すぐ行くよ。」
携帯電話をパチリと閉じて白衣のポケットに入れる。
今日の夜が待ち遠しい。
今日だけはどうか、残業になりませんように。
なったとしても、なるべく早く帰れますように。
ビ タ ー ・ ス イ ー ト
「ただいま。」
自宅のドアを開けて中に入る。
鍵を閉めてチェーンをかけたときにふと目に入った腕時計の針は、午後8時37分を指していた。
「おかえりなさい!」
――結構急いだつもりではあったけれど、遅くなったな。
そんなことを思いながら靴を脱いでいると、リビングのドアが小さく開いて、その向こうから彼女が飛び出してきた。
「ごめん、遅くなった。お腹空いたでしょ?」
「大丈夫!今日帰りに操とケーキ食べたから、ちょうど今良い感じに減ってきた頃。」
そう言ってさり気無く俺の鞄を取り上げてリビングに戻っていく彼女を見ていると、何だか胸の辺りがきゅうっとなって。
相変わらず、気遣いが上手いなぁなんて感心してしまう。
リビングのソファーにジャケットを掛けてネクタイを緩めていると、いそいそと冷蔵庫から食材を取り出す彼女の姿。
テーブルの上に置かれたガスコンロと、綺麗に並べられたとんすいと。
そして大きな丸皿の上にのせられた切りっぱなしの野菜から想像するに、今日の晩飯はおそらく……
「鍋?」
「正解!もう準備はばっちりです。」
「おー、自分のスペックをよくわかっていらっしゃる。」
「ち、違っ!剣心一人でお鍋とかしないでしょ!もう良いから早く着替えてきて!」
「ははは!確かにね。」
彼女の機嫌を損ねてリビングから追い出されてしまった俺はおとなしく寝室に向かい、彼女の言うとおりに服を着替える。
最近めっきり寒くなってしまったから、きっと旨いだろうなと思うと、自然と頬が緩んだ。
適当な服に着替えてリビングへ戻ると、そこには既に鍋の中でくつくつと煮えている具材たち。
椅子に腰掛けると良く冷えたビールが運ばれてきて、「今日は金曜日だからね」と彼女が笑う。
「晩飯の準備ありがとう。今日は何鍋?」
「今日は豆乳。操のおじいちゃんに、料亭で使ってるゴマだれもらっちゃった。」
「ホントに?おいしそうだね。」
「うん!いっぱい食べてね。」
鍋の隣に置いてある丸皿には、既に鍋に大量の野菜が投入されているにもかかわらず、山盛りの野菜。
いまだに2人分の量を把握できていないためか、はたまた彼女の素晴らしき料理センスのためか。
まぁ何にせよ、明日と明後日は休日なのだからいくらでも捌くことはできる。
それよりも、これだけの野菜を前にして、包丁片手に危なっかしい手付きで格闘していたであろう彼女の姿を想像すると、つい口元が緩んでしまった。
「いただきます。」
二人で手を合わせ、合唱。
何から食べようか……と鍋の中身を覗き込むと、ぶくぶくと沸騰する鍋の中で、白葱が旨そうに踊っている。
そんな白葱に心惹かれ、鍋の中で程よく煮えていたそれを箸で摘み上げると、なぜか次々に鍋から出現する白葱。
呆気にとられながらも白葱を最後まで引き上げると、おそらく一本分の白葱が皮一枚ほどの厚さを残し繋がって、幼稚園のパーティーなどでよく見られる、輪っかのくさりのような姿で現れた。
これには思わず、噴出してしまう。
「こ、これはある意味……芸術作品、だね……」
「ちょ、違っ、ちょっと切れてなかったっていうか、その!……っ、もう!そんなに笑わなくても!」
「いや、ホントに。逆に難しいよ、これ。」
「もういいってばっ!切り離したらいいじゃないの!」
そう言って真っ赤になりながら白葱を切り離そうとする彼女を見ていると、今日一日の疲れなど吹っ飛んでしまって。
「葱は繊維が縦方向だから、それじゃあ切れないよ」なんて言えばますます怒ってしまう彼女は、とてもかわいらしい。
何故かキューブ形をしているニンジンも、イシヅキがちょっと残っているしめじも、少し渋いゴボウも。
彼女と食べれば何でもおいしい、なんてもし俺が口にしたならば、彼女は一体どんな顔をするのだろう。
* * *
洗い物を終え、ソファーを背もたれにして絨毯に座り込んでいると、彼女が食後のコーヒーを運んできてくれた。
そのコーヒーをガラステーブルの上に置くと、彼女は俺の隣にちょこんと腰を下ろして、どこか浮かない表情。
「どうしたの?」と尋ねると、彼女はしおれたまま「洗い物全部させてごめんなさい。」と呟いた。
「いいよ、そんなの。準備してくれたんだから、片付けくらいは俺がやらないと。」
「…………」
「あ。そういえば、お土産があるんだった。」
俺はソファーに立て掛けておいた鞄を手繰り寄せて、その中から少し皺になった紙袋を取り出す。
その皺を伸ばしつつ、「はい」と彼女にそれを手渡すと、紙袋の中を覗き込んだ彼女がみるみるうちに嬉しそうな表情になった。
「あー!これ新商品だ!」
「そのカップに入ってるやつ、この冬に出る商品の中で一番美味しいと思う。また食べて。」
「やったー!ありがとう!」
大手食品メーカーの菓子部門で商品開発をしている俺の家には、サンプルやら完成品やらを含め、実に大量の菓子類が常備されている。
彼女はそんなありあまる菓子を賞味期限から守るヒーローのような存在で、家にやってきては、毎回たくさんの菓子を持って返ってくれるのだ。
年頃の女性にとって菓子といえば、好きな反面、太るからと敬遠されそうな気もするが、彼女にいたってはそのような心配は微塵もないらしい。
彼女曰く、「毎日運動しているから、大丈夫」とのこと。
確かに彼女はスレンダーな体型で、更に言えば筋肉質。
所属している剣道部での成績もなかなかのものであるらしいから、日々練習に力を注いでいるのだろう。
「ね、剣心。」
「何でしょう?」
大きな瞳をキラキラさせて、じっとこちらを見つめる隣の彼女。
こういう状態の彼女が口にする言葉は、十中八九困る内容で。
「今日泊まっていい?」
「ダメ。」
ほらきた。
そらきた。
しかも、案の定彼女は口を尖らせて、ぶーぶー音を出している。
そんな顔も可愛いけれど、一応年頃の女性なのだからやめなさい。
「なんでよ。ケチ。」
「君は高校生。未成年。」
「捕まりたくないから?」
「そうじゃなくて。まだまだ若いんだから、早まることないでしょ?」
「……またそうやって、意地悪なこと言う」
あ、マズイ。
そういえば、この間もこの話題で泣かせてしまったんだった。
現に彼女の堤防は決壊寸前。
俯き加減な瞳にじわじわと溜まっていく液体を見て、やってしまったと後悔する。
「薫、おいで。」
そう言って彼女を両足の間に座らせると、彼女は座り込むや否や、俺の首にぎゅっと巻きついてついに爆発。
首元に熱い涙を落とされて、耳元でしゅんしゅん言われると、もうこのまま押し倒してしまいたくなって。
いかんいかん、そうではない。
切れそうになる理性をなんとか繋ぎとめながら彼女の身体を緩く抱くと、彼女は途切れ途切れに言葉をぶつけて来た。
「私が好きなのは、剣心だけだもん……、ちゃんとしっかりそう思ってるもん……」
「ごめん。ちょっと言い方間違えたね。泣かせるつもりはなかったんだけど。」
「っ……、私ばっかりが好きなのは分かってるけど、それでもちょっとでも長く剣心と居たいんだもん……」
そう言って首に巻きつけた腕の力を一層強くする彼女を前にして……、すみません。もう限界です。
飛びそうになる意識を引っ掴んでは気を持ち直し、少し落ち着いたところで彼女に触れる。
正直、いとしくていとしくてたまらないひとからそんな風に言われてしまったら、耐えろという方が無理なのだ。
それでも自分の事情で彼女に触れるのは許されぬことだから、何が何でも耐えなければならないのだけど。
「俺も、薫が好きだよ。多分薫が思ってるよりも、ずっと好き。」
「じゃあどうして……、キスから先はダメなの。」
「それだけが愛情表現じゃないでしょ?」
「っ……、分かってる、けどっ」
「大事にしたいんだ。ホントに、大事にしたい。」
彼女の初めてが俺だということを後悔させたくない、とか、そんなことを思っているわけではない。
むしろ、彼女の全てを欲しいと思っているし、他の男に譲る気だってさらさらない。
そうではなくて、彼女の意識が俺に追いつくまで待ちたいだけなのだ。
俺の気持ちを、おそらくは彼女のそれよりもはるかに大きな俺の気持ちを、彼女が受け入れられる段階になるまで。
「何もしないから、隣で寝たらダメ?」
「え、薫が俺を襲うの?」
「わがままも言わないから。朝になったらちゃんと帰るから。」
何だか若干論点が気がするでもないけれど、彼女は至って真剣で。
朝になったらちゃんと帰るって、何かそれおかしくないか?とは思うけれど、あまりにも彼女が必死なものだからつい頷いてしまった。
何だかな。
絶対にこの一線は越えないと心に決めていたはずなのに、あっさりと突き動かされてしまう。
それでも仲直りのキス一つでガチガチになってしまっている彼女を見ていると、この分だと手が出せるのは当分先かな……と思わず苦笑いになってしまった。
>>終
2010.11.17
いけいけ押せ押せGOGO緋村!